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レジス・ドゥブレ 『一般メディオロジー講義』


■書誌■

書 名  『一般メディオロジー講義』   Cours de médiologie générale  書影
著 者  レジス・ドゥブレ   Régis Debray  
訳 者  監修=西垣通+訳=嶋崎正樹    
叢 書  レジス・ドブレ著作選3    
出版社  NTT出版   Éditions Gallimard 
頁 数  513頁   395 pages 
定 価  5500円   145FF 
発 行  2001年03月22日   1991 
ISBN  4-7571-0046-9    


■書評■

米軍の爆撃機が落下した爆弾の残骸から採取された部品を流用して造られた一台の印刷機が、反米抗戦をつづけるヴェトナムの同志たちに読まれるはずの新聞を印刷する。深く穿たれた坑道の中で、一枚、また一枚。その新聞は、機械とそれを繰る手によって一枚ずつ刷られる。印刷機を繰る男が言う。「印刷機が一台あればこうして新聞を刷ることができます」 このようにして一人の男と一台の印刷機によって刷られた新聞はやがて人々の手にわたり、読まれ、読む人々はメッセージを受け取り、状況を知り、励まされ、行動を促されるのだろう。

これはオランダの映像作家ヨリス・イヴェンスの監督作品『北緯17度』(Le 17ème parallèle、1968年)の一齣だ。ここには、情報を伝達しようとする人間の苦闘とも言える営為が映し出されている。それは伝達のための苦闘であるためにわたしたちに伝達という営為やその条件を考えさせる映像でもある。どのようにして、何によって人は、情報を伝達することができるのか。携帯電話や電子メイルなど、ありあまる情報伝達ツールの使い手である現代の日本人の多くにとって、伝達の条件であるツールは既製のハードやソフトに過ぎず、情報の伝達に苦心することはない(もちろん、ハードやソフトを使いこなせないというメディアリテラシー的な意味での苦闘はあるだろうが)。つまり、健康な人間が普段健康や病気を省みないように、既存のツールを介して情報が伝達することは暗黙の前提であり省みられることはない。戦時下の新聞印刷の情景がわたしたちに思い起こさせることは、この、忘れがちな情報伝達の条件だ。

そしてこれがメディオロジーの関心でもある。メディオロジーは、人間の考えがいかにして、何に媒介されて伝達されるのか、を記述しようとする。一人の人間の脳裏に宿った考えは、なんらかの手段/媒介によって物質的に表現されなければ他者へ伝わることはない。例えばわたしたちは「思想」について語るとき、それがあたかも思想そのものとしてあるかのようにその内容について議論をしないだろうか。しかし思想はつねに何らかの媒介を経て伝わる。文字、書物、音声、ラジオ、映像、TV……。メディオロジーは人間の思想を、内容だけではなくその媒体とともに考察する必要があると主張する。

ドゥブレはしばしば「入力」と「出力」という表現を使って、思想(言説)が出来事(行動)になることを表現する。例えば宗教改革では、ルターの「95箇条の提題」やカルヴァンの『キリスト教綱要』を入力として、内戦・新しい都市・新しい国境・移民が出力されたという風に。この入出力の置き方自体は、わたしたちが歴史の授業において、ある歴史的事件をある因果関係によって理解・記憶することと左程変わらない。だが、ドゥブレが問題とするのは、むしろこの入出力の間にある「痕跡」だ。入力と目されるルターやカルヴァンの思想(言説)は、一体どのように流布し、読まれたのか。そして出力である人々の行動へと至ったのか。メディオロジーは、人間の象徴活動――と言うのは表現が言語のみならず音声や図像、映像でもあるからだ――が具体的にどのように伝達するのかを記述しようとする試みである。コミュニケーションやメディアの諸条件を考察するという意味で、メディオロジーはコミュニケーション批判、メディア批判の学と言ってもよい。

その対象領域が広大であることは容易に想像がつく。メディオロジーの観点からすれば、人間の象徴活動と出来事が結びつくところには必ずメディオロジー的な問題があるからだ。実際この講義においてドゥブレは、キリスト教が一冊の書物も著さなかった男の言説からどのようにして一大宗教が組織され分裂さえするにいたったか、在庫がなくなるまでに20年も30年もかかったというマルクスの『資本論』がいかにして社会主義革命という大きな運動の原動力となっていったか――について、キリスト教の教義やマルクス主義の思想内容の検討よりもむしろそれらの言説の媒体や流通の観点から分析してみせている。

当然のことながら象徴活動の媒体や伝達を考える上で、その媒体を誰が所有している/できるのか、誰が規制している/できるのか、誰が利用している/できるのか、という観点は逸することができない。これはとりもなおさずメディオロジーが権力や権利の問題にもかかわるということに他ならない。総じて言えば、思想はいかなる媒介によって力となるか、これがメディオロジーの立てる問題である。

もちろんメディオロジー以前にもメディオロジー的な仕事はあったし、メディオロジーなる概念を知らずともメディオロジー的な仕事をする人間はいるだろう(例えば佐野眞一のルポルタージュ、『だれが「本」を殺すのか』(プレジデント社、2000)は、20世紀末から21世紀初めにかけての日本における書物の編集、流通、販売を考察したすぐれてメディオロジー的な仕事である)。「メディオロジー」という言葉を使うかどうかはまったく問題ではない。しかし、メディオロジーという試みとそれが提供する諸概念が、言葉や象徴活動がいかにして力や出来事になるか、という人間に普遍的な問題の所在を明確に示し、わたしたちがそのことを意識的に考えることをより容易にするものであるならば、この考え方を使わない手はない。

評者は、ドゥブレの講義(本書)がたたえる豊かさや読者を新たな思考へ誘う刺激を、随分と貧相な形で紹介してしまったのではないかと懼れる。しかし。もしあなたが、言葉や思想がアクチュアリティを持つことに関心や疑問を持つならば、是非とも本書を読むことを勧めたい。通読した暁には、この野心的な試みに比してこの500頁(邦訳書)はむしろ短くさえあることに気づかれるだろう。(八雲出)



■備考■

原書には下記の文庫版もある。

・Régis Debray, Cours de médiologie générale (Folio Essais, Éditions Gallimard, 2001/02)




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