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| ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』 |
| 書 名 | 『ニーチェと哲学』 | Nietzsche et la philosophie |
| 著 者 | ジル・ドゥルーズ | Gilles Deleuze |
| 訳 者 | 足立和浩 | |
| 叢 書 | Quadrige 237 | |
| 出版社 | 国文社 | Presses Universitaires de France |
| 頁 数 | 358頁 | 232 pages |
| 定 価 | 3500円(本体) | 62FF |
| 発 行 | 1974年(新装版1982年) | 1962(Quadrige, 1997) |
| ISBN | 4-772-00015-1 | 2-13-048332-1 |
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書物に正しい読み方などあるわけではないが、本書を手にしたらなにはさておきつぎの箇所を開いて読むことを勧めたい。
「哲学は何の役に立つのかと問われたとき、答えは攻撃的でなければならない。なぜなら、そのような問いは皮肉で辛らつたらんとしているからである。哲学は国家や教会の役には立たない。国家や教会には別の関心事がある。哲学はいかなる既成の権力にも役立たない。それは悲しませるのに役立つ。誰も悲しませず、誰も不愉快にしないような哲学は哲学ではない。哲学は愚劣をやっつけるのに役立ち、愚劣を恥ずべきものとみなす。それは次のような使用法以外のものをもたない。つまり、あらゆる形態における思惟の低俗さを告発すること」 (『ニーチェと哲学』邦訳書p.157、原書p.120) 本当はこれに続く数ページをそのままここに引用すれば、私がこれ以上要領を得ない蛇足を書き加えずとも読者諸子は本書を手にとりたくなるに違いなく、もって本書評の任務は果たせるはずだ、と思う。だがいろいろな意味でそのように引用することは差し控えたい(第一「引用」というには長くなりすぎるし :-)。はるかに魅力に劣ることを百も承知で以下を書き綴る次第である。できれば本書評をお読みの諸姉兄は、ここでただちにコンピュータとディスプレイの前から離れて上記引用箇所以下数ページをゆっくりと読まれたい。しかるのち、改めて同書を冒頭から読み始めていただきたい。そう思うのである。 ここに引用した文章ではじまる続く数ページは、本書のなかでももっとも熱気を帯びたものであり、本書の数ある読みどころのなかでももっとも興味深い箇所の一つだ。哲学は何の役に立つのか?――それは時代の愚劣と闘うことに役立つ。この問いとそれに対する答えは、ドゥルーズの哲学することへの動機――本書以前から晩年に至るまで一貫して維持される強力な動機でもある。そしてこの動機は、彼の哲学のスタイル、つまり書物や概念をたんにあるがままに解釈することを目指したりするのではなく、さまざまな文脈のなかで使ってみるといったスタイルと無縁ではない。 では、本書においてドゥルーズはどのようにニーチェを読む=使うのか?(以下文中でドゥルーズがニーチェを「読む」という場合の「読む」はそのまま「使う」と読み替えていただきたい。表記は煩雑を避けて「読む」とするので) ドゥルーズはニーチェの哲学を、厳密な用語法に基づいた厳密で矛盾のない体系として読む。これはハイデガーの水際立ったニーチェ読解(講義録『ニーチェ』ほか)にも通じる姿勢であるとともに、たとえばそのハイデガーが批判するボイムラーのように永劫回帰はニーチェの他の思想と矛盾するからといって切り捨てるような読み方に抗う読解だ。また、ドゥルーズはニーチェの言ったことにのみ基づきながらもしかし「どこか怪物めいた」鬼子を生ませる変奏的読解を遂行している。そのような姿勢で彼はニーチェを「哲学に意味と価値の概念を導入した」哲学者としてその哲学を、諸力の哲学、差異を肯定する哲学、あるいは多元論(経験論)として読む(より正しくは使うというべきか)。それだけにこうしたニーチェとの接し方につぎのような批判があるのは無理からぬことではある。 「差異と力の概念を中心にし、形而上学の解体を伴奏者にしたニーチェ解釈は一時期流行したが、その元凶となった本〔『ニーチェと哲学』のこと――八雲記〕。かくも凡庸かつ月並みで思いつきだけを並べた本、そして自分の「思想」を述べるためにニーチェを利用しただけの本は見たことがない。著者たちが批判する近代的な主体の横暴をニーチェに及ぼしているだけ。そういうものとしてぱらぱら見ておいてもいいかもしれない」 (『現代思想の冒険者たち 第00巻 現代思想の源流』、講談社、1996、p.288) これはドイツ哲学・文化の研究者である三島憲一氏によるコメントだ。ドゥルーズがニーチェの哲学を使い、使うとどうなるかを見とどけようとしていることを理解しているという意味で、このコメントは半面でドゥルーズの意図を汲み取っていると言える。しかし、「自分の『思想』を述べ」ないニーチェ読解のありようをいまなお信じている点で、ドゥルーズがニーチェとともに言わんとしたこと(つねに「誰が?」を問うこと――系譜学)を故意にか無意識にか見落としている(三島氏はそのコメントのままに本書をぱらぱらとしか見ていないのかもしれない。あるいは氏が翻訳にたずさわった『近代の哲学的ディスクルス』でのハーバマスによるドゥルーズやフーコーへの批判の延長上で書いたのだろうか。とはいえハーバマスは本書を読んだ上で内在的に批判しているのだが。ちなみにこのコメントは『現代思想の冒険者たち』第00巻の「読書案内」におさめられたニーチェについての案内に含まれている。この文中『ニーチェと哲学』の書名から誤植あるいは誤記によって「と哲学」が抜け落ちている点は示唆的だ)。 三島氏の批判に触れたのは、これがドゥルーズのニーチェ読解に対してありうる批判の典型であると思うからだ。なるほどもしひとがニーチェを論じる論者自らの思想を表明していないようなニーチェ論を読みたいと思うなら、ドゥルーズの本は一番最後に読まれるべきものだろう。しかし同時に言えることは、そう望むひとはただちにニーチェの書いたものを、そしてそれだけを読むべきではないか、ということだ(とはいえ「原典」でさえ、テクスト編集者のテクスト・クリティークによる意向=解釈から完全に免れるわけではないのだが)。 それでもなお本書を読むとしたら、そのときは意味と価値はつねに当該の対象において関係しあう諸々の力によって、その組み合わせによってそのつど形成されるのだという本書の中心的な主張を、ただちに本書にも、そして本書もひとつの諸力としてかかわりあうニーチェという対象についても適用してみることが必要だ。そしてその際には次のようなハーバマスの批判が持つ意味をも併せて考えなければならない。 「この〔解釈――八雲記〕方式によれば、批判によって<理性と力の混淆>が露呈され、その結果、世界は再び神話的世界ででもあるかのように、宥和を知らない権力闘争の場として放擲されてしまう。(中略)つまり、さまざまな権力の戦略が交差しあったり、交互に現れたりするとういのであるが、それらの戦略は、ディスクルスの形態や、その内的強度に応じた区別はできるが、対立抗争をおさめるときの意識的なやり方と無意識的なやり方といった区別に可能なような、妥当性という側面に即した判断はできなくなってしまう」 (J.ハーバマス『近代の哲学的ディスクルス』、三島憲一訳、岩波書店、1990; 1999、I-p.221) ニーチェを読むとよこしまなことがしたくなる……ドゥルーズは本書とは別の場所で述べた。「よこしまな気持ちというのは、ひとりひとりの人間がみずからの名においてごく単純なことを述べ、情動や強度、体験や実験によって語りたくなるということだ」と。こうしたドゥルーズのものいいはオプティミステイックに過ぎるだろうか? そうかもしれない。ハーバマスのようにその効果をあらかじめ冷静に見積もろうとする態度、それも必要だろう。しかし、ある書物なり哲学者なりが表明した思想を、彼/彼女が思ってもみなかった地点にまで肯定し、推し進めてみること、そこで思想が被る変容とその過程において生じるであろうトラブルを見てみること、こうした実験がもつラディカルさは、単なる冷静沈着な態度からは望むべくもないものでもある。だからといってどちらを採るか? などという問題ではない。どちらであってもよい。ただし肝心なことは、いずれの、そしてその他のあらゆるやり方をひとが採るにせよ、「誰が?」という問いを手放さないことだ。 「問題となっている事象を占有しているのはどんな力か、それを所有しているのはどんな意志か。その中に自己を表現し、自己をあらわにし、また自己を隠しさえするのは誰か、ということだ。(中略)われわれが『とは何か』という〔問いの主体を消すことによってあたかも対象についての客観的・非人格的な――八雲記〕問いをたてるとき、われわれはたんに最悪の形而上学に陥っているだけではなく、実際には、不器用で盲目的で無意識的で混乱したやり方で、『誰が』という問いを立てているにすぎないのだ」 (『ニーチェと哲学』) したがって、本書を読むわたしたちのいま一つの問題はつぎのように言えるだろう。ほかならぬドゥルーズはどのような時代の愚劣に向かい合ったのか? そしてその愚劣はいまもなお幅を利かせているのか? と。(八雲出) |
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