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ルネ・デカルト 『方法序説』


■書誌■

書 名  『方法序説』   Discours de la Méthode 
著 者  ルネ・デカルト   René Descartes  
訳 者  谷川多佳子    
叢 書  岩波文庫青613-1   Bibliotèque de la Pléiade 
出版社  岩波書店   Éditions Gallimard 
頁 数  137頁   pp.123-179 
定 価  360円(本体)    
発 行  1997年07月16日   1996(原典は、1637) 
ISBN  4-00-336131-8    


■書評■

1637年、オランダのレイデンでフランス語による一冊の書物が出版された。書物の題名を『理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話〔序説〕。加えて、その方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学』と言い、通常は短く『方法序説と三試論』などと呼ぶ。著者は四十がらみのフランス人、ルネ・デカルト

意外に思われるかもしれないが『方法序説』は、デカルトにとって印刷物としては最初の書物である。デカルト『方法序説』以前にも、『音楽提要』(1618)、歿後遺稿集で読まれることになる未完の作品『精神指導の規則』(1628)、ついに出版を断念した『世界論』(1633)など、種々の作品を書いたがこれらは生前に出版されなかった。

書名からわかるように『方法序説と三試論』の全体は大きく四つの部分から成る。それぞれの部分はしばしば独立して読まれる。ここで言及する邦訳書も、冒頭の『方法序説』を訳出した書物であり、本稿もまた言及の範囲を『方法序説』に限定する。三つの試論――『屈折光学』『気象学』『幾何学』――については別に機会を設けて扱う予定である(これら『方法序説と三試論』の邦訳は白水社版の著作集に収録されている)。

さて、書名の『方法序説』とはどういう意味だろうか。原題をフランス語で、Discours de la méthode と言う。discours とは、「話」という程の意味である。この書名についてデカルトは、メルセンヌに宛てた手紙の中で「方法論」(Traité de la méthode)とせずに、「方法の話」(Discours ...)とした意図を語っている(1637年03月)。つまり、方法について「教える」のではなく、ただそれについて「話す」という意味で Discours という語を選んだのであると言う。この「教える」と「話す」という態度の違いは、知識を切り売りした古代ギリシアのソフィストと問答を重ねるソクラテスの違いを想起させる。デカルトはどういうつもりで話すことを選んだのか。『方法序説』第一部に次のような断りがある。

「……わたしの目的は、自分の理性を正しく導くために従うべき万人向けの方法をここで教えることではなく、どのように自分の理性を導こうと努力したかを見せるだけなのである。教えを授けることに携わる者は、教える相手よりも自分の知性がまさると見るのが当然だ。どんなに小さな点においても誤るところがあれば、その点で非難されることになる。けれども、この書は一つの話として、あるいは、一つの寓話といってもいが、そういうものとしてだけお見せするのであり、そこには真似てよい手本のなかに、従わないほうがよい例も数多く見られるだろう」(邦訳書、p.10)

「わたしはこのようにした」という方法を話すことは、「このようにすると巧くゆく」と教えることではない。昨今巷に溢れるハウトゥ本の多くは後者の意味での方法を教えるものだが、デカルトがむしろ「従わないほうがよい例」さえもあると警告していることからもわかるように、彼が言う方法とはそのようなものではない。これはデカルトの目指すところから考えても当然である。本書で論じられる方法が、なにについての方法であるかといえば、冒頭に掲げた正確な書名にも記されているように「理性を正しく導く」ための方法である。理性(raison)とは、デカルトの用法に従えば物事を「正しく判断し、真と偽を区別する能力」のことだ。そのような能力である理性をどうしたら正しく使うことができるだろうか? その方法についてデカルトが考え、実践したことを本書で語ろうというのである。本書の読者もまた、自ら理性を正しく働かせることによってデカルトの主張の真偽を判断することが求められているのであって、これを無批判に従うべきマニュアルとして受け取ってはならない。マニュアルに盲従することほど思考から遠いものはないのであってみれば。

では、デカルトは物事の真偽をどのように見分けようと言うのか。それは懐疑を通じて確実な知識を探求することによって、である。つまり、少しでも不確実だと思われる判断、信念を捨て去ることだ。多数の人が賛同している意見も問題ではない。事の真偽は、賛成者の多寡で決まるものではないのだから。疑いうることの一切を疑った果てに、なおも疑えないものはあるか。デカルトはある、と言う。それが「考えるわたし」である。すべてを偽と考えようとする間も、そう考えるわたしが存在することは疑い得ない真理である。これがかの「哲学の第一原理」つまり「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」(Je panse, donc je suis)である(cogito, ergo sumは上記仏文のラテン語訳)。この場合の「存在する」とは、あくまでも考えるわたしについて言われているのであって、身体についてではないことには注意が必要である。「どんな身体も無く、どんな世界も、自分のいるどんな場所も内とは仮想できるが、だからといって、自分は存在しないとは仮想できない」(p.46)、「このわたし、すなわち、わたしをいま存在するものにしている魂は、身体〔物体〕からまったく区別され、しかも身体〔物体〕より認識しやすく、たとえ身体〔物体〕が無かったとしても、完全に今あるままのものであることに変わりはない」(p.47)とデカルトが記しているように、身体と精神を区別するデカルトにとってより確実に存在するのは精神である。

ところでこの、デカルトによる身体と精神の区別――いわゆる心身二元論――には、カトリックの教義に馴染む護教的な側面と、合理主義的な側面とがともにあることを見落としてはならないだろう。そもそも肉体/霊魂〔精神〕という区別はキリスト教のものである。実際デカルト『省察』(1644)の冒頭に付されたソルボンンヌの神学者に宛てた書簡において、『方法序説』の延長上にある『省察』が、無信仰者に対して神が存在することと、人間の精神と身体が別のものであること(つまり、霊魂=精神は肉体が滅びても滅びないこと)を哲学的に論証する企図のもとに書かれた書物であると明言している。また他方、デカルトが哲学の第一原理において表明するのは、人間は理性が把握するもののみに確実な知識の基礎を見る、言ってしまえば、人間は理性が知りうることをしか確実には知り得ない、という態度である。単に「明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は、わたしの判断のなかに含めないこと」という規則だけを読めば、「明晰・判明」とはどういうことか? それは「悟り」のように言表しえない一種の神秘主義なのではないか? と読まれかねないが、これは自然の背後に「隠された性質」(qualitas occulta)を措定するスコラ的な自然観に対する批判でもあることを忘れてはならない。

「完全にわれわれの力の範囲内にあるものはわれわれの思想しかない」――デカルトは人間精神の限界をこのように見積もる(余談になるが、この言葉はただちにストア派のエピクテートスを思い起こさせる)。われわれはわれわれ以外の事物、たとえば世界や他者に対して力を及ぼすことはできる。だが、それらの事物は決して完全にはわれわれの力の範囲内にない。誤ってはならないのは、これが諦念ではないということだ。むしろそのようでしかない精神によって人間は何を知り得るか? それがデカルトの出発点であり原動力である。事実、デカルトは三試論や『世界論』をはじめとした諸著作において、神、宇宙、自然、人間についての知識を探究し続けた。人間精神が知りうるすべてのことに関して確実な知を探究すること、それが知を希求するという語義を持つ哲学(philo-sophia)の本来の営為だとすれば、哲学史上に現れる固有名の研究をする哲学学だけが哲学ではないことは明白である。『方法序説』は、そのような哲学の射程を明確に宣言する書物である。(八雲出)



■備考■

なお本書には上記のほか、次の邦訳がある。

・『方法序説』(野田又夫訳、「世界の名著 第22巻 デカルト」所収、中央公論社、1967)



■LINK■

CEDRIC――Discours de la Méthode の電子テキスト(仏語)。

小泉義之デカルト=哲学のすすめ』――当劇場内書評。

・J.-F.ルヴェル『無益にして不確実なるデカルト』――当劇場内書評。




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