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| ルネ・デカルト 『人間論』 |
| 書 名 | 『人間論』 | L'Homme (De Homine) |
| 著 者 | ルネ・デカルト | René Descartes |
| 訳 者 | 伊東俊太郎+塩川徹也 | |
| 叢 書 | デカルト著作集 第4巻 | Oeuvres de Descartes tome XI |
| 出版社 | 白水社 | J.Vrin |
| 頁 数 | 223-296頁 | |
| 定 価 | 6796円(本体) | |
| 発 行 | 1973年 | 1967(原典は、1633?) |
| ISBN | 456002524X |
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デカルトが著作として残した思想の全体をみわたすと、そこには奇妙なねじれがあることに気がつく。
たとえば、自然のすべての現象を物質とその運動に還元して説明することを目指して書かれた『宇宙論――まはた光についての論稿』(原題は le monde。「世界論」とも訳される)と、その続編である『人間論』の著者デカルトはいうなれば自然学者である。これらの仕事におけるデカルトは、宇宙の成り立ちと運動、人間の身体の構造と機能を、物質の言葉で記述することに専念している。 他方で、デカルト本人も述べているように、彼は物質と精神の二種類の実体があると考えている。つまり、「人間を含む世界を構成する要素は何か?」という問題に対して、デカルトは心身二元論を採っている。だが、デカルトが「認識の妥当性」(いかにして私は確からしいことを知りうるのか?)を検討にかける場面では、それ以上疑い得ないもの(つまり確からしいと考えてよいもの)が探求された挙句、「考えているわたし」が存在することこそが疑いをいれえない拠り所として取り出される。このとき、デカルトは、身体の確実さは疑いうるが精神はそうではないとも述べていることに注意したい。認識の妥当性を検討する場面において哲学者デカルトは、その基礎を物質ではなく精神に置いている。 宇宙(世界)は物質とその運動に還元して把握できるという自然学者デカルトと、その認識の基礎は精神にあるという哲学者デカルトは、いうまでもなく一人の人間である。いずれか一方のみを探求するだけなら、問題はさほど込み入らなかったはずだ。認識の条件を括弧にいれて(不問にして)ひたすら物質の性質を探求してゆけば、自然のなかに繰り返しあらわれるかのように見える同一性を発見し、自然を因果の連鎖で把握することに専念できるだろう。逆に、ひたすら人間の認識の条件や知識の妥当性をいかに保証するのかを考えるだけなら、必ずしも自然科学に手を染める必要はなく、方法的懐疑(一抹でも疑わしいことについては判断を保留せよ)の遂行によって人間精神にとって確からしいことがらを探求すればよいはずだ。乱暴にいえば、現代の科学者は前者であり、哲学者は後者である。幸か不幸か、近代科学の揺籃期を生きたデカルトは、一人でこの二役を生きることになった。心身二元論とはこのデカルトが生きた困難をそのまま形にしたような仮説である、などといったら予定調和的に過ぎるだろうか。 そんな自然学者デカルトと哲学者デカルトが否応なく対決にのぞむ書物――精確を期せば対決にのぞむはずだった書物――それがこの『人間論』である。 本書は、先にも述べたように『宇宙論』の続編(あるいはその一部)として構想された。科学の専門化・細分化が進んだ今日では、宇宙論(世界論)の中に人間論が併置される書物などちょっと想像しがたいけれども、自然の全域について解説を試みるという構想からすれば、そこには人間以外の自然と人間に関する記述が同居していても少しもおかしくはない。 さて、本書の冒頭でデカルトは、「人間は精神と身体とから構成されている」と述べた上で、人間論では「身体」「精神」「身体と精神の関係」について説明すると予告している。ところが、実際にはこの予告のうち最初の部分、つまり「身体」に関する説明で終わっており、残りはついに書かれなかったようだ。自然学者と哲学者の対決はおあずけである。 だが、「身体」について書かれた部分に、対決の様子を想像させる手がかりがある。それは脳の構造とその働きについて解説を加えたくだりである。デカルトはこの箇所で、情念(感情)や記憶、想像力、夢(!)、性格、意志(による身体の運動)について、身体の側からそのメカニズムを説明している。詳細は本書にゆずるが、デカルトはこれらの精神の働きを、脳の或る腺(現在は松果腺と呼ばれている)の機能と動物精気という粒子(しかも大きさや形は均一ではない)の流れに還元している。つまり、動物精気の流れが腺を動かし、また腺から出る動物精気が各種の神経へ流れ込むことで精神のさまざまな働きが生じるというのである(ちなみにデカルトによれば「くしゃみ」もまた動物精気の運動によるらしい)。 ――現代脳科学の知見を聞き及んでいる読者は、ひょっとしたらデカルトの説明を微笑みながら読むかもしれない。「デカルトさん、問題はそんな「腺」や「動物精気」なんかじゃなくて、ニューロンの発火とニューロンがおりなすネットワークの状態遷移ですよ」と。しかしここでぜひとも考えてみなければならないことがある。よしんば、われわれが脳の解剖学的事実や生理学的事実について、デカルトより多くのことを知っていたとして、それでは人間の精神についてデカルトの省察からどれほど先に進みえたのか? 「人間が怒りにとらわれるのは、脳内の松果腺に動物精気がかくかくしかじかの作用を及ぼすからだ」という説明と、「人間が怒りにとらわれるのは、ニューロンのネットワークがかくかくしかじかの状態になるからだ」という説明の違いについて考えてみること。それと同時に、精神の働きを表現し、区別する語彙や概念がどれほど豊かになってきたのかを検討してみること(いったい「怒り」という言葉ひとつに、どれだけ多様な質的差異をもった実際の感情が対応を余儀なくされていることだろう)。そう考えてみると、問題の構造とそれに対する解答の試みのかたち自体は、彼我でそう変わっていないのではないかとさえ思えてこないだろうか。考えようによっては、デカルトの『人間論』が、肝心な部分を欠いた未完の作品であることはなにか示唆的でさえある。 もちろん、だからデカルト以後に行われた人間探求の試みが無駄であった、というわけではない。ただ、デカルトが一人二役を演じた心身二元論の難問(身体と精神はどのように関係しあっているのか?)が、いまなお解決を見るにいたっていないことはたしかだ。だとすれば、一方では脳科学をはじめとする諸科学の進展による人間の解明に注意をはらうとともに、そもそもわたしたちが対象を理解し、記述するそのやり方について検討してみる必要があるだろう。そのやり方で、わかることとわからないことの境界はどこにあるのか、と。そしてさらに言うなら、なぜこのようなことが繰り返し、数百年にわたって問題になりえてきたのか、と。(八雲出) |
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