「今日、批評は実質的な社会機能をことごとく喪失している。……批評の現状とは、文学産業のPR部門か、そうでなければ、もっぱら学術機関のなかの問題でしかない」――イーグルトンが本書でこう述べたのは
1984年のことだ。われわれはこの一文にある種の既視感を覚えるかもしれない。だがしかし、それは批評のあるべき姿ではないこと、批評がいつもこうであったわけではないこと、このことを示すのが本書の仕事である。イーグルトンは、ユルゲン・ハーバーマスの「公共圏」の概念をてこにして、18世紀以来の英国批評制度の歴史に批評の機能、役割(かつて批評はなにをしていたか?)を概観してゆく。原著の副題「From The Spectator to Post-Structuralism」が示すのは、その歴史的範囲だ。
18世紀初頭、近代ヨーロッパ批評は絶対主義的国家体制との闘争から生まれた。貴族階級によって構成された体制に対し、コーヒー・ハウス、クラブ、定期刊行物といった社会的諸制度の上で展開されたブルジョワ独自の言語空間を、イーグルトンは「ブルジョワ公共圏」と呼ぶ。ここでの言論の資格は身分ではなく、理性的な言説主体であることだ。このブルジョワ公共圏の形成・維持に大きな力をもったのが『スペクテイター』をはじめとする定期刊行物であった。批評家はここにおいて、文学に限らない広範な批評を営み、社会的影響力を発揮した。
やがて読者層がパトロンから不特定多数の公衆に拡大し、文学生産物が市場経済に左右されるようになると、合意主義を旨とする公共圏が市場の利害によって突き崩されてゆくだろう。市場原理に迎合して三文文士となるか、それに背をむけて超越的な哲人の立場をとるか?いずれにしても批評が大学に逃げ込み社会的アクチュアリティを失うまであとほんのわずかだ……。
文学という制度内に自ら閉じていった批評がふたたびアクチュアリティをおびる日はくるのか。そうであるとしたら、批評はなにをしてゆくのか。イーグルトンのねらいは、本書によって批評の伝統的な役割を思い出させることであった。さて、それから十数年が経つが、ヨーロッパの批評シーンはどうなっているだろうか。(八雲出)