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福田和也『日本人であるということ』


■書誌■

書 名  『日本人であるということ』 
著 者  福田和也 
叢 書  ハルキ文庫 
出版社  角川春樹事務所 
頁 数  文庫判302頁 
定 価  520円(本体) 
発 行  1997年07月18日 
ISBN  4-89456-331-2 


■書評■

私は在日朝鮮人 [★1] である。私は、自分が何人であるかについて常に宙ぶらりんであった。私は日本にも、朝鮮(そこにはすでにふたつの国がある)にも、まったく感情移入をすることができない(別にそうしたいとも思わないが)。本書の紹介文も、そのような人間の手になるものだということをご了承願いたい。

まずは本書の性格について。本書は、「<日本人であるということ>とは何か」を論ずるというよりはむしろ、「<日本人であるということ>を深く自覚しなければならない」と説く書物である。実際、「昔の日本人はこんなに立派だった」ということ、だがそれらの日本人性が現在失効しつつあること、それを克服するためには単なる先祖返りではすまされないということが示されながらも、これから日本人がもつべき日本人性については言及されていない。つまり「それこそをこれから考えなければならないのだよ」ということである。

現在、日本はさまざまな困難を抱えている。その理由の根本は、自分たちが「日本人であること」を見失いつつあるということにある。コメと皇室をもって日本の本質とする考え方は江戸時代からのものだが、いま当のコメと皇室の両方が危機に瀕しているということこそが、それを証明している。「日本人とは何か」という問いは、軋轢や脅威、外とのふれあいのなかで生まれてくるものであるから、今ここで私たちはもう一度ゼロから、「日本人であるということはどういうことなのか」を考えなければならない時期にきている。ところで、これまでの日本人の生き方を特徴づけていたのは、血統よりも組織の存続を重視する意識や、日常生活のごく一般的な事柄を芸術化する発想、学問を常に生身の人間の立場から考えていく態度などであった。それら日本人の根幹をなしてきた様式は、現在崩壊しつつある。いま日本人は自分を見失ってしまっているのだ。では、どうするべきなのだろうか。日本人は、「日本人であるということ」の根本を作り直し、ゼロからまた蓄積していく努力をしなければならない。そのために日本人は、お金では買えない独自の文化を、あくまでも自分たちの生活の現在から作り上げていかなければならない。そしてその文化は、実際の生活に即した人間関係や環境、仕事のなかから、生まれてこなければならない。また逆に、自分たちの生き方や価値観を生活や暮らしの領域に反映させるという、物質の世界を精神で支える意志をもたなければならない。なぜそうしなければならないかというと、これまで日本人が存続してきた根本が、このような普通の暮らしそのものが文化であったということにあるからだ。そして結論としては、日本人が国際社会でどのような文化を作り上げるべきかはまさにこれからの課題なのだけれども、そのよすがは、明治維新から大東亜戦争までの体験のなかにあるということができる。なぜなら、明治以降の日本を支える力となったのは、まさにそのような日本の文化であったのだから。

本書のメッセージをまとめたら、以上のようになろうか。まあ、言っていることはわかるし、非常にまっとうな内容だと思う。しかし、私にとってひっかかるのは、本書が前提としている部分だ。本書では「日本人であるということ」は、はじめから自覚しなければならないこととして前提されている。現在の日本の苦境がその自覚の欠如からきているからには、自覚自体の是非はもはや問うまでもなく明らかなのかもしれない。しかし、福田が本書で顕揚したような「文化」は、とどのつまり「地に足のついた生活をすること」以上のものではないのではなかろうか。もちろん「地に足のついた生活をすること」が推奨されることに関しては文句はない。ただ「地に足のついた生活をすること」が、「日本人であるということの深い自覚」と結びつかなければならないということが、私には少々分かりづらいのである。確かに明治期の偉人たちは、自分が「日本人であるということ」を強烈に意識していただろう。だからといってそれをそのまま現代の日本人、さらにはすべての国民が自覚しなければならないことだと言ってよいものだろうか。大多数の日本人にとって、自分が「日本人であるということ」は自明の事実であるわけだから、あとは「地に足のついた生活」をするだけで立派だと、福田は言わなければならないのではなかろうか。あるいは、日本という国においては(あるいは世界中のどの地域でも?)、「地に足のついた生活をすること」がすなわち「日本人であるということ」の深い自覚以外の何物でもないということだろうか。ここで私は、昔坂口安吾が日本文化について書いたことを思い出すのだが、まあ、人(福田)の書いたことをさらに違う人(坂口)の書いたことでもって否定するつもりはない。私は端的にその辺がよくわからないのである。また、ここで言われる「日本」とは、どういうものなのだろうか。自分が法的に国民として帰属している国としての日本、というわけではなかろう。福田は、「日本人であるということ」にそんな狭い限定を与えているようには思えない。間接的な、書類上の契約関係などではなく、もっと生活や習慣に密着した「日本」を想定しているはずだ。またそうだとしたら、「日本人であるということ」は「地に足のついた生活をすること」にまるまる吸収されてしまうのではないかという疑問がわいてくる。ここでもまた、「日本人であるということ」と「地に足のついた生活をすること」との関係がわからなくなる。あるいは、「日本」というものはこのような「屁理屈」では決してわからないものであり、日本人自身が「ああ、日本だなあ」と思う、言葉にならない感慨のなかにのみあるということだろうか。もしそうだとしたら、私には完全にお手上げである。私にとって、わかりやす過ぎるくらいわかりやすい本書のなかで唯一難解だったのは、結局この部分であった。これについては本サイトの共催者である「日本人」、八雲出にぜひとも聞いてみたいところだ。(吉田浩)

★1――付け加えておくと、私は日本で生まれ育った。外国で生活したことはない。





■リンク■

・ROUTE#007「日本人とは何か」−当劇場内の書評ROUTE。



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