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長谷川宏『新しいヘーゲル』


■書誌■

書 名  『新しいヘーゲル』  書影
著 者  長谷川宏 
叢 書  講談社現代新書1357 
出版社  講談社 
頁 数  新書判201頁 
定 価  640円(本体) 
発 行  1997年05月20日 
ISBN  4-06-149357-4 


■書評■

ヘーゲルに限らずわたしたちが昔の学者が書いた書物をひもとくことには、一時の好奇心を満たす以上のいかなる利害=関心がありえるだろうか。一体ヘーゲルの書いたことや講義で語ったことを読み解くことには、昔話を読む歴史的な意味よりほかになにかがあるのだろうか。

ヘーゲルは現代の読者にとっても十分に魅力的だ――こう語るのは本書『新しいヘーゲル』の著者・長谷川宏氏だ。氏は大学院の修士論文の主題に『精神現象学』を選んで以来ヘーゲルを読みつづけてきたというから年季のはいったヘーゲル読みである。たしかにわたしたち一般の読者の眼に触れる作品だけを見ても1974年の処女作『ヘーゲルの歴史意識』以来、『格闘する理性』(1987)、『ヘーゲルを読む』(1995)など氏は折に触れてヘーゲルに関する仕事を発表している。1990年代にはヘーゲルの講義と著作の翻訳――『哲学史講義』(1992-93)、『歴史哲学講義』(1994)、『美学講義』(1995-1996)、『精神現象学』(1998)、『法哲学講義』(2000)を刊行し、長谷川氏は従来のアカデミックな翻訳とは一線を画す訳文で新しいヘーゲル像を示した。その是非は別として、金子武蔵の厳格な翻訳で『精神現象学』に親しんだ読者には、長谷川訳は別の書物のように見えるのではないだろうか。

では「新しいヘーゲル」と言う場合の新しさとは何か? 少なくとも二つの意味で使われている。第一は「新しい」翻訳ということ。先にも述べたように長谷川氏はヘーゲルを読む一方で精力的に翻訳の仕事を進めている。その訳文は「日本語として普通に読んでヘーゲルの言いたいことが理解できることを主眼とした」(『哲学史講義』上巻、訳者まえがき)ものであり、場合によっては註を本文に繰りこむことも厭わないという大胆な方針に基づいている。従来の翻訳では、まず日本語として理解するところからはじめなければならなかったヘーゲルの読書を、長谷川氏の訳文では日本語としては一応わかった上で内容を吟味するという場所からはじめることができるという利点を提供する。他方で、この訳文は原文の形に忠実たろうとする従来の翻訳がめざす厳密さを犠牲にしている点は否めない。翻訳については別の場所で考えることにしてこの際一言だけすれば、読みやすさをめざそうとも厳密さをめざそうとも翻訳は原文ではない。読み手としてはこの点を留意しつつ必要に応じてそれぞれの翻訳を利用、あるいは原文を読むに越したことはないのである。

さてやや話が逸れたが、長谷川氏は巻頭に「ヘーゲルはむずかしいか?」という一章を置いている。ヘーゲルはむずかしいか?――そんなことはない、というのが著者の考えだ。他者が考えたことである以上理解できない、納得できない点があるのは当然としても、世上言われるほどにヘーゲル哲学は難解ではない。ではどうしてヘーゲルの書物は難しいと言われるのか? 原因は哲学の翻訳に固有の専門用語にあるというのが長谷川氏の見立てだ。「人倫」「悟性」「表象」「止揚」「即自的」「対自的」……現在でも哲学書にあらわれるお馴染みの用語は、明治よりこの方西洋の諸学を摂取することを急務とした知識人たちが未聞の諸概念を日本語に移そうと尽力するなかで、漢籍から援用したり造語したりしながら次第に作り上げてきたものだ。そのようにして新たな言葉を造ること自体は問題ではない。これらの用語を手繰り寄せ作り上げた人々には古典漢籍の豊かな教養があり、彼らには訳語としての言葉という以前に漢語としての意味やイメージが脳裏にあっただろう。「哲学」という言葉からしてそうだ。現代のわたしたちはこの漢字に philosophy に先立つそれとは別の意味やイメージを充当することはできない。しかし、この言葉を造った西周にしてみれば「哲学」あるいは「希哲学」とは周濂渓(北宋時代の中国の学者)の『通書』の一節にその意味内容を支えられた言葉であった。そしてわたしたちの手元には西が持ち得ていた支えを失った「哲学」という言葉だけが伝わった――というよりもわたしたちの多くが古典漢籍の教養を失ったためにこの言葉が遠い祖先としている元の文脈や言葉の響きを聞き取れなくなっているというのが事実だろう。もちろんこれは哲学用語に限ったことではない。

長谷川氏の批判は、そうした専門用語をいまなお無自覚・無反省に使いつづけるアカデミックな哲学研究者に向けたものだ。氏は皮肉をこめて、日本の研究者たちは哲学をわかりやすくしようと努力するよりも、権威の維持のために難解な用語をそのままにしているのではないか、と述べている。「西洋の哲学そのものがむずかしいのではなく、近代日本の哲学研究者たちが、西洋の哲学をむずかしいものに仕立てたかったのである」 だからこそ、長谷川氏は必ずしも先達が作り上げてきた訳語を継承するのではなく、ヘーゲルが言いたかったことに即してあらためて「新しい(日本語による)ヘーゲル」を示すのだ。翻訳の仕事自体が、日本の哲学研究に対する批判となっている所以である。そしてそれは批判であると同時に哲学をアカデミズムの外へ開こうという意図の実践でもある。いまではそれで飯を食う一部の研究者と一部のもの好き以外からは顧みられることもなくなった哲学に今一度新しい光をあてること。先にも述べたように長谷川訳にもデメリットはある。だから氏の翻訳をもってヘーゲル読解の完全版だということはできない(そもそも完全な翻訳などありえない相談ではあるが)。しかしこの点に留意するならば、彼の訳業が持つ実践的な意味は評価されてよい。

「新しいヘーゲル」という場合の新しさは少なくとも二つあると言った。

しかしもう一点は実はそれほど「新しい」ことではない。本書の残りの五章――「第二章 『精神現象学』――魂の遍歴」「第三章 世界の全体像――論理・自然・精神」「第四章 人類の叡智――芸術と宗教と学問と」「第五章 近代とはどういう時代か――日本と西洋」「第六章 ヘーゲル以後」――を読み進めばわかることだが、これらの章で著者はヘーゲルの思想をいくつかの観点から解説・読解する。理性へ全幅的な信頼を寄せ、絶対知の境地へ至る精神の旅を語るヘーゲル(学問論)。共同体の精神と個人の内面をともながらに統一的に表現した古典ギリシア芸術にひとつの理想を見るヘーゲル(芸術論)。ルターの宗教改革を評価しつつもそれがどこまでいっても聖書と神の権威に支えられたキリスト教者のための改革でしかないことから宗教を学問の下におき包摂的に論じるヘーゲル(宗教論)。啓蒙主義思想の無神論的傾向に批判的な距離をおきつつも自立した個人の自由とと理性的な教養を通じて共同体精神へいたろうとする近代精神と少なくともはじまりにはその精神の発露があったフランス革命に共感するヘーゲル(社会論)。――こうしたヘーゲル論自体はすでに『ヘーゲルの歴史意識』において形は違えども述べおかれたことである。このようなヘーゲル論を書くことで著者がめざしたのは「ヘーゲル哲学を考えることが、同時に、現代を読みとくことであり、現代を考えることであるような、そういう視座のもとにヘーゲルをとらえる」こと、つまりヘーゲルのアクチュアリティを提示することであった。これが「新しいヘーゲル」の第二の内容だ。

だがこの点については不満がないわけではない。なるほど本書に描かれるヘーゲル哲学に向き合いながら読者がそこに自分の問題意識をぶつけるならば、ヘーゲルが現代に持ちうるアクチュアリティも感得されるだろう。しかし本書を普通に読んだのではヘーゲル解説の域を出ない論述であることもたしかだ。本書が主にヘーゲルに親しまない読者に向けて書かれた啓蒙書であるとすれば、この点、もう一方踏み込むんでヘーゲルの問題意識が現代のどのような問題に接続されてゆくのかを具体的に提示すべきではなかったか。ヘーゲル以後の思想家たちがヘーゲルとどのように向かい合ったかを概観する最終章の末尾ではアウシュヴィッツの問題に言及がある。だがこの問題が一人ヘーゲルだけの問題ではない以上、著者はやはりヘーゲル哲学がこの問題を考える上で寄与する論点についても併せて言及すべきではなかったか。

それを自分の頭で考えるのが哲学だ――と言われれば身も蓋もないけれども、評者としては熟達したヘーゲル読みである長谷川氏の「ヘーゲルの応用練習問題」とでも言うべき書物、つまりヘーゲルのアクチュアリティを真正面から提示する新たな書物を読んでみたいと思うのである。(八雲出)




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