本書は、ジャン・ボーフレのヒューマニズムに関する問いに答えた、
ハイデガーの書簡である。
『存在と時間』など初期の著作と関連づけながら、
ハイデガー自身がいわゆる転回以後の思索を率直、簡明に解説しているという点で注目に値する著作だ。
ハイデガーはまず、人間の本質とは「存在へと身を開き、そこへと出で立つありかた」にあると述べる。そして思索とは、存在の人間にたいする関わりを実らせ達成することであり、言葉とは、そうした思索のなかで存在そのものがみずからを開き明るくしながら、しかしまた秘め隠しながら到来することにほかならない。言葉が存在の家であるとは、このような意味においてである。ここで重要なのは、思索するのが人間であるとともに、そしてそれ以上に、思索するのは存在そのものである(人間をして存在に聴従せしめ帰属せしめる)という点だ。人間が存在の真理のための番人であるとは、このような意味においてである。ところで、
プラトン以来の形而上学は、ながらく存在忘却(故郷喪失)の彼方に放擲されている。存在を本質存在と事実存在とに区別する形而上学は、決して存在そのものを思索することがないからである。現代のヒューマニズムもまた、形而上学の枠内の思考にほかならないのであってみれば、その人間の本質を求める試みはまったくの誤謬であり、必要なのは形而上学的ヒューマニズムではなく、「存在へと身を開き、そこへと出で立つありかた」という、ほんとうの人間の本質に立脚したヒューマニズムなのである。しかし
ハイデガーがいうように、そのような本来の思索が、いまだ来るべき思索にとどまっているのであれば、本書の書評なるものを書く私にとっては、ここでいわれる「存在」「思索」についての積極的言明、定義などは本質的に禁じられてもいるのである。(吉田浩)