岩田氏は、ソクラテス(=
プラトン)の問答に備わったある特徴に着目しながらその哲学を説く。――ここでソクラテスの後ろに
プラトンの名を置くのは、何一つとして書き残さなかったソクラテスとその思想についてわたしたちが知るところの多くを
プラトンの諸対話篇に負うていることを示している。以下では単にソクラテスの名のみを記すが、それはつねに「ソクラテス=
プラトン」と読みかえられる必要がある。――ソクラテスの問答は、エレンコス(【希】elenchos、吟味、論破)、つまり確実な知識に到達するための反駁的対話の形をとっている。ソクラテスは、つねに対話の相手の自発的な同意(強制されない同意)を求めながら、相手の主張を徹底することで考えられることや主張に含まれる問題点を引き出して見せる。その積み重ねをつうじてついには、対話者は自らの言説に基づいているにも関わらずその言説によって言おうとしたこととは別のことを言わされてしまうはめに陥る。
ときとして対話篇は問題の解決を見ずに終わる。そのような対話篇では読者もまたエレンコスによってお手上げになったソフィストと共にアポリアの中に置き去りにされる。ソクラテスは問題に解決を与えることを放棄したのだろうか?
そうではない。対話者のドクサ(臆見)を破壊することによってソクラテスは一定の目的を果たしているのだ。自分自身を巻き込む実存の真理を、だれも他者にむけて直接教えることはできない。だが、アポリアとの直面はひとがドクサの陥穽から抜け出して自らの力で真理を探究する契機となりうるだろう。ソクラテスはどこかで「わたしは間違った考えを持ちつづけるくらいなら、その過ちを人から指摘され正されることをおおいに歓迎する」と述べていたはずだ。しかし心地よい独断を破られることは、かならずしもすべての人間にとって歓迎されることではなかったようだ。ひとびとの独断を破壊するソクラテスは、ついには青年を惑わす者として、つまりポリスを害する人物として裁判にかけられた末、死刑を宣告されるだろう(その顛末はプラトンが『ソクラテスの弁明』に書き残している)。
しかしもし人が単なる自己満足に終わらない知識を求めるならば、たとえアポリアに陥ろうとも他者による吟味から逃げるべきではない。なるほどアポリアに陥ることは、積極的な知識の生産ではない。けれどもそれは単なるドクサにとどまるという欺瞞から抜け出すという意味で消極的ではあるがやはり生産的であると言えよう。
なんらかの解決に着地しないこと。宙吊りでいること。ここにおいてアポリアは思考が停止する終着点ではなく、そこから思考をはじめる出発点であることがわかる。ソクラテスの問答はドクサに安寧を見出すのではなく宙吊りに耐えることを教える。その有名な「無知の知」は、たえまない思考へと開かれている強靭さの証ではなかったか。本書はソクラテスのエレンコスという装置が、さまざまな局面においていかに作動しうるのか、そしてそれがわれわれにとってもまたアクチュアルな意味をもつ装置であることを教えてくれるのである。(八雲出)