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| 小泉義之 『生殖の哲学』 |
| 書 名 | 『生殖の哲学』 | ![]() |
| 著 者 | 小泉義之 | |
| 叢 書 | シリーズ・道徳の系譜 | |
| 出版社 | 河出書房新社 | |
| 頁 数 | 126頁 | |
| 定 価 | 1500円(本体) | |
| 発 行 | 2003年05月30日 | |
| ISBN | 4-309-24285-5 |
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20世紀は、クローン技術、新胚作出技術、生殖補助技術、遺伝子工学といった、生命とその産出にかかわる諸科学・技術が大きく発展した世紀だった。この潮流はいまもなお続いており、今後ますます進展してゆくことが予想されている。
科学・技術がきりひらく生命に関する知見は、私たちが従来依拠してきた価値基準や概念が前提していない事態を現実のものとしつつある。こうしたバイオテクノロジーとその応用については、主に生命倫理(バイオエシックス)の観点を中心として、批判的検討が続けられている。手持ちの定規では測り知れない新たな出来事に直面したとき、その行為や行為がもたらす効果(結果)の善し悪しを、私たちはどのように考えればよいのか。私たちの思考が試される事態である。 生命倫理学者ではないが、フランシス・フクヤマは『人間の終わり――バイオテクノロジーはなぜ危険か』(原著 2002)〔★1〕において、この問題を検討している。フクヤマは、脳科学や遺伝子工学の分野の現状分析をつうじて、人間の生の条件(フクヤマの言い方では「人間の権利」「人間の尊厳」)が科学・技術によって否応なく変化しつつあることに警鐘を鳴らす。科学・技術からいかにして人間の権利と尊厳を守るか? これはもはや政治(によるコントロール)の問題だ、というわけだ。 フクヤマのような議論を理解することは難しくない。これまでも科学・技術の発展とそれがもたらす利便は、つねにリスクとセットであった。たとえば私たちは毎年何万人もの交通事故の犠牲者を代償として交通の利便性を得ており、放射能汚染のリスクをかかえながら原子力発電を利用している。しかも交通や原発では、生活の利便性という次元の(それにしても十分に大きな)問題であったが、ことバイオテクノロジーにおいては、ほかならぬあなたや私の身体や生の条件が直接問題となる。誰であれこれについては慎重に行こうではないか、と考えそうなものだ。 しかし、小泉義之の意見はちがう。本書『生殖の哲学』において、小泉は次のように問題を提起する。各種の生殖補助技術は予期できない問題を発生させるかもしれない。たとえばさまざまな変異的人間――私たちが暗黙のうちに想定しがちな「正常な人間」の範疇におさまらない人間――や怪物をさえ生み出すことになるかもしれない。しかしだからこそ徹底的にやるべきだ、と。そしてその過程や結果においてあらわれるかもしれない未来の生命体、怪物をこそ歓待しなければならない――小泉はこのことを、本書を構成する三つの文章(一つの講演と二つの書き下ろし論考)において繰り返し述べている。 小泉の主張は、フクヤマのような「常識的」な観点から見れば、狂気の沙汰であろう。第一、私とは異なる変異的な人間や、危険をもたらすかもしれない怪物があらわれたら、「人間」の存在が幾重にも脅かされる。第一には身体的な危機がある。人間に敵対する強力な「害獣」があらわれて、人間を物理的に危機においやるかもしれない。第二には観念的な危機がある。ハエ人間、ヒョウ人間といったキメラ的(合成)生物の出現は、「人間」という種の境界を脅かすだろう。しかし、この「危機」こそが小泉の「希望」の根拠でもあるのだ。 小泉の、一見逆説的な主張が痛烈に剔抉(てっけつ)しているのは、私たちの《不寛容》である。優生思想、性差別、障害者差別といった、「正しい人間」「優生な人間」という規範から他者を劣位に価値づける不寛容はいっこうになくなる気配がない。しかしもし、生殖の諸技術を万人に開放し、予期せぬ問題も含めて生命の産出を押し進めていったならどうなるだろうか。私たちが「人間」という言葉で暗黙のうちに想定している生命とは異なるさまざまな生命があらわれる可能性がある。そうした生命を抹殺することなく歓待するとき、人間の見方、そのあり方が否応なく一新されることになるはずだ。だから、生殖の技術によって新しく生まれる生命体――怪物や変異的人間――を私たちは歓待しなければならない。もっとも、人間ならぬ生命体を歓待できるようになった暁には、人は「怪物」や「変異的」あるいは「障害」といった、「正常」のネガとして措定された価値観を無用のものとして捨て去るはずだ。本書において、さしあたって「怪物」という言葉、「障害者」という言葉が用いられるのも、目下蔓延している《不寛容》を名指すためであろう。小泉は、生殖をめぐる思考の不在を批判しつつ、このように未来の希望を語る。 いかにも極端な希望ではある。にわかには首肯しかねる議論もある。だが、戦争と革命の、つまり死をめぐる世紀であった20世紀と目下その延長上にある21世紀の現状から、未来に希望をきりひらくためには、小泉が言うように生殖と生命について徹底的に考え抜くことが是非とも必要である。生命の諸学と諸技術を、徹底的に思考し、批判すること。同時に、その潜在性を十全に活かすこと。小泉の主張を批判するにせよ肯定するにせよ、本書で小泉が示すように、問題のポテンシャルを最大限に肯定してみてはじめて見えてくるものがあることを見過すわけにはいかない。フクヤマの、ある意味で退屈なくらい現実的な議論に向かうのは、本書を検討してからでも遅くはない。(八雲出)
〔★1〕Francis Fukuyama, Our Posthuman Future: Consequences of the Biotechnology Revolution(2002, Farrar Straus & Giroux, Amazon.co.jp) |
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・ROUTE#004「道徳の系譜学」‐当劇場内の書評ROUTE。
・小泉義之『弔いの哲学』(シリーズ・道徳の系譜、河出書房新社、1997)‐当劇場内書評。 ・小泉義之『デカルト=哲学のすすめ』(講談社現代新書1325、講談社、1996)‐当劇場内書評。 ・Amazon.co.jp‐本書を購入したい方はこちらからどうぞ。
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