本書はエマニュエル・レヴィナスが、
1946年から
1947年にかけてジャン・ヴァールの哲学学院で行った4回の講演をもとにつくられたものである。この講演の目的は、冒頭でレヴィナスが述べているように「時間は孤立した単独の主体に関わる事実ではなく(中略)まさに主体と他者との関係そのものである、ということを明らかにすること」にある。
本書においてレヴィナスは、「孤独」「位相転換 hypostase」「実存者なき実存」「死」といった諸概念を手がかりに、実存者の実存のありさまを時間と他者のなかに探ってゆく。レヴィナスが言う「実存者 existant」「実存すること exister」とはハイデガーの用語「存在者 Seiendes」「存在 Sein」を翻訳したものであり、本書は『存在と時間』の批判的読解でもある。たとえば、レヴィナスは実存者と実存との存在論的差異を際立たせる為に「実存者なき実存」という概念を提出する。レヴィナスがこの概念を――ハイデガーがそのような表現を認めないだろうと言いながらも――引き出すのは、まさにハイデガーの概念である Geworfenheit(被投性)からである。
またレヴィナスは、ハイデガーにおける孤独はあらかじめ前提された他者との関係のうちに考えられたものであると批判し、それを捨て去る。レヴィナスによれば、孤独とは、予め与えられた他者との関係の剥奪ではなく、実存者と実存することとの間の解消しえない統一性であり、位相転換(hypostase)すなわち「実存者がそれを通して自らの<実存すること>を結びつけるところの出来事」に起因するものなのである。本書において、他者は前提されるものではなく探究されるものである。
時間と他者についてはどうかといえば、孤独が時間の不在であること、現在とは<実存すること>が実存者へ転ずる境界にあること、未来との関係は他人(=引き受けられた他者)との関係であり、「現在による未来に対する侵蝕は、単独の主体の所業ではなくて、間主観的関係」であること、つまり「時間の条件は、人間同士の関係のうちにないし歴史のうちに存在する」ことなどが論及される。がしかし、本書をによって目的とされていた、主体と他者との関係そのものとしての時間が解明されたわけではない。むしろ、訳者も言うように本書がレヴィナスのその後の思想から見返したとき、将来展開されることになるであろうテーマのほとんどすべてが萌芽的に提出されているものだとすれば、われわれは本書のレヴィナスとともに、絶えず立ち戻るべき出発点に立っていると言うべきであろう。(八雲出)