![]() |
|
| ホーム > Geo-Philosophical Book Map > |
| ルクレティウス 『物の本質について』 |
| 書 名 | 『物の本質について』 | De Rerum Natura |
| 著 者 | ルクレティウス | Titus Lucretius Carus |
| 訳 者 | 樋口勝彦 | |
| 出版社 | 岩波書店 | |
| 頁 数 | 文庫判330頁 | |
| 定 価 | 553円(本体) | |
| 発 行 | 1961年08月25日 | |
| ISBN | 4-00-336051-6 |
|
本書は、ローマの詩人ルクレティウス(Titus Lucretius Carus、c.94-c.55B.C.)の現存する唯一の作品である。友人メンミウスを相手に、エピクロスの自然にかんする説を叙事詩の糖衣につつんできかせるというスタイルで書かれた本書は、エピクロスの思想を現在にまで伝える貴重な資料でもある(註1)。
本書には第1巻から未完とされる第6巻までをとぎれることなく流れる二つの通奏低音がある。ひとつは一貫した原子論であり、もうひとつは反宗教的態度である。ルクレティウスによれば(註2)、ひとびとが自然や死をおそれ、それらの原因を神々に帰し、宗教に影響されているのは、ひとえに自然や死にかんする知識を欠いているからだ。その原因を知り、死や自然がいかなるものかを理解すれば、それが一向に神々とは関係なく、またむやみに恐れるべきものでもないことが感得されるであろう、というわけである。ここでルクレティウスが俗説を退けるために援用するのが、エピクロスの原子論である。 エピクロスの原子論は、デモクリトスらのそれと同様に(あるいはそれに従って)自然現象を不可分の物質=原子の運動によって説明しようとするものである。物質が運動するためには、物質のほかに物質によって占められていない空間=空虚があるはずであり、ここから万物の本質は物質(原子)と空虚であるとされる。ここで、「では、ある瞬間のすべての原子の位置と運動量がわかればわれわれはその後起こるであろうことを知ることができるだろう」と考えれば自然は必然的である。ルクレティウスによれば、エピクロスは「斜傾運動」(clinamen[ラテン語])を考えることにより、必然ではなく偶然の道を選んだ。つまり、原子は通常空間を下にむかって進むとされるが、「全く不定な時に、又不定な位置で、進路を少しそれ、運動に変化を来らすと言える位なそれ方をする」のだと言う。これは必然や運命という「むやみに恐れられる」考えを退け、われわれの自由意志を確保するための説明でもある。 本書でルクレティウスがとりあげる自然現象は、我々の認識や精神の働きから、宇宙や大地の生成、死、遺伝、気象、地震、磁石、病気などに及んでいる。そしてどの場合についてもかれが主張するのは、それらはすべて神によるのではなく、原子の運動によるのだということである。この一貫した態度にわれわれが見るべきは、時代遅れの知識ではなく、「その中に貫流する科学的精神」(寺田寅彦)である(註3)。 また本書を読めば明らかなことであるが、ルクレティウス(あるいはエピクロス)の反宗教的態度を安易に反神論や無神論に読み替えてはならない。かれは自然現象の原因を神にもとめることや宗教を否定しはしたが、神の存在を否定したり貶めたりはしていない。むしろ『イリアス』や『オデュッセイア』に見えるような気まぐれな神々を否定しているとさえ言えるだろう。だから、ルクレティウスは「なぜわたしだけがこのような(悲惨な)境遇に置かれ、悩まなければならないのだ!おお、神は存在するのか!」といった問いかけには無縁である。なぜなら、神々は人間とはいっさい無縁である、というのがルクレティウスの主張なのだから。
なお原典はラテン語の叙事詩であるが、本訳書では散文に訳されている。(八雲出)
(註1)たとえば、clinamen という概念は、ルクレティウスの本書によって伝えられたものであり、ディオゲネス・ラエルティオスによって保存されたエピクロスのものとされる諸作品には見られない。 (註2)「エピクロスによれば」と表記すべきだという意見もあるかもしれないが、ここでは「ルクレティウスによれば」と記す。読者には「ルクレティウス(あるいはかれによるエピクロス)によれば」と読み替えていただきたい。 (註3)寺田寅彦の「ルクレチウスと科学」(『寺田寅彦全集 第5巻』、岩波書店、1997)は、なぜ<いま>ルクレチウスを読むのかを説いた緒言と『物の本質について』の解説からなる四六版にして60数頁ほどの文章。この中で寺田寅彦は「ルクレチウスは一つの偉大な科学的の黙示録である」と同書をたたえ、その意義を説いている。内容については別の機会にゆずるが、ルクレティウス以後の物理学が得た成果との対比のなかにあらわれ立つルクレティウスもまたおおいに魅力的であり、これをルクレティウスの食前酒あるいはデザートとして読書子に推薦する次第。また、その口吻(興奮/公憤)に自身科学者でもあった寺田寅彦の科学観や当時の科学界にたいする思いがはしなくも伺える、という別の意味でも興味のつきない作品である。ルクレティウスからはずれるが、後者の観点にかんしては、同全集第15巻の月報に寄せられた赤木昭夫氏の「今こそ『興奮』せずにはいられない」をも参照されたい。 |
|