レヴィナスの慎ましさは、かれが哲学者であることとけっして無関係ではない。あらゆるものから醒め、対象との距離を保つ場所、ここが哲学者の立つひとつの場所だとすれば、レヴィナスはそのような場所に立ちつづけていた。
『全体性と無限』『存在するとは別の仕方で、あるいは存在することの彼方へ』といった「哲学的著作」のレヴィナスとタルムードを読む「宗教的著作」のレヴィナスとを区別するひとびとに向かって本書の著者サロモン・マルカは言う。「なぜひとびとはこれが同一の素材で織り上げられた単一の作品の二つの相面であるとは思わないのだろうか」――レヴィナスはただユダヤ教を二つの仕方で語っているのだ、と。本書は、言わばそのような仕方でレヴィナスを読むための書物である。
フッサール、ハイデガー、シュシャーニらレヴィナスの思考的営為に決定的な影響をあたえた者たちとともに、サロモン・マルカはサルトル(街頭の哲学者サルトル/『道徳論のためのノート』を遺して去ったサルトル)、ブーバー、フランツ・ローゼンツヴァイク、そしてモーリス・ブランショらを舞台に登場させ、レヴィナスの思想をそのテクストに語らせるとともに、歴史的文脈から彼我の差異を浮き上がらせる。本書はレヴィナスを読むためのひとつの地図、ひとつの配置である。「愛、他者、顔、人質、欲望、宗教、神・・・」手垢にまみれた言葉を「生きられた経験」から出発してレヴィナスのいう「ギリシャ語」――それ以上遡及することのできない言葉――の位相において省察するように、そのようにレヴィナスを読むこと。サロモン・マルカはそのような読みを提案している。(八雲出)