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ブッダの生涯のみならず、仏教の歴史のなかでもいちばんの事件とは、もちろんブッダの「さとり(大覚成就)」である。この小著が試みるのは、その「さとり」の内実を直截に述べることだ。まず、さとりを理解するためにもっとも重要な点として、さとりとは直感であり、受動性だということが指摘される。ブッダは、感性により受動的に与えられた直感(さとり)を、ゆっくりと悟性によって公式化した。ブッダがさとりの後にもなお数週間、菩提樹の下で瞑想を続けたのは、そのためである。つまり、さとりを特徴づけるのは直感と受動性であり、さとりの構造とは感性を素材とした悟性の行使である。ここで公式化されたのが「縁起の法」であった。苦がどのような条件で生まれるのかを縁起の法により明らかにしたブッダはそれと同時に、苦を滅するためにはその条件を滅すればよいことを理解した。そこから仏教の実践的要請が生じる。まず滅せられるべきものは無明(無知)であるが、仏教が知の教えだと言われるのは、その点においてである。しかし苦の問題の解決を果たしたブッダには、まだ克服しなければならないことがあった。増谷はそれを「正覚者の孤独」と呼ぶが、つまりは「たったひとりで道を行くこと」の孤独であった。それを克服するために説法が行われたわけである。ブッダにとっては、説法が成功することによってはじめて「人にではなく法によって生きる」ことが可能になった。だから、苦の問題を解決するためにはじめられたブッダの宗教生活は、さとりをもって成就されたのではなく、それが他者によって理解された瞬間をもってはじめて、成就されたと言うことができる。「仏法豎立(仏教の確立)」が、大覚成就ではなく「初転法輪(最初の説法の成功)」をもって言われるゆえんである。(吉田浩)
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