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| 伊藤邦武編『新・哲学講義5――コスモロジーの闘争』 |
| 書 名 | 『新・哲学講義5――コスモロジーの闘争』 |
| 著 者 | 伊藤邦武編 |
| 出版社 | 岩波書店 |
| 頁 数 | 205頁 |
| 定 価 | 2200円(本体) |
| 発 行 | 1997年12月05日 |
| ISBN | 4-00-026195-9 |
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「コスモロジーの闘争」と題された本巻の課題は、近代ヨーロッパにおける自然哲学の基本的な問題設定とその理論展開を検討することにより、「現代の自然哲学的探究の予備作業」を行うことである[★1]。
著者は近代から現代までの自然哲学を貫く共通の問題意識として「コスモロジーの自立」という視点を提出する。すなわち近代以来の自然科学・自然哲学の歴史を、コスモロジー(cosmology、宇宙論)、つまり宇宙全体を説明する理論の自立をめぐる闘争史として読もうというのである。このとき著者は、ここでいうコスモロジーにはこの理論の作成者である人間自身の認識の可能性をも説明することが要求されていること、このことに注意を促す。 講義はまず、ヨハネス・ケプラーを例にとり、近代科学が伝統的思考から独立するその身振りを確認した後、デカルトとパスカルにおける諸問題(空間の無限性、神の存在証明問題)がニュートンのいわゆる『プリンキピア』(1687)においていかに「解決」されたか、そして、ニュートンに対して行われたライプニッツの論争をカントがいかに批判的に綜合したか、という闘争史をたどる。 ではここにおいて「コスモロジーの自立」とは、なにから自立することを言うのか。 著者は『純粋理性批判』のカントによって「自立」のひとつのメルクマールを示す。ものそれ自体の把握を目指す従来の認識論から、人間の条件(アプリオリに与えられた対象受容形式=時空、判断の形式)に即した認識のあり方への「コペルニクス的転回」、すなわち「神」という概念の援用から足を洗うこと、これがひとつの自立である[★2]。 カントによってコスモロジーの自立は完成したわけではない。カントのコペルニクス的転回はたしかにそれに先立つ伝統的な思考に対してひとつの転回であっただろう。だが同時にカントにはカントの限界があった。 現在、依然としてコスモロジーは闘争をつづけている。はたして理論の制作者である人間自身の認識をも含むコスモロジーが「自立」する日はくるのか? 本講義を読了した私の脳裏をよぎるのは、むしろそのようなコスモロジーは可能であるのか? あるいはなぜ自立しなければならないのか? という疑問である。とはいえ、冒頭でも紹介したとおり本講義の目的はコスモロジーの自立を目指す人間の性向の歴史をたどることであっても、その前提を反省するものではなかった。読者をしてそのような疑問を惹起せしむるところで本講義の任務ははたされたと言ってもよいかもしれない。(八雲出)
★1――本シリーズは、「講義の七日間」「セミナー」「思想史年表」「定義集」から構成されているが、ここでは各巻の基調講演にあたる「講義の七日間」を俎上にのせる。文中、「講義の七日間」を便宜上「本講義」と記す。
★2――カントは神と手を切るために人間の認識に限定を導入したというよりも、むしろ神の存在を擁護するためにそうしたのだ、つまりカントがとったのは、デカルトによる神の存在証明に対するパスカルの態度(有限な存在であるわれわれ人間には神を知ることはできないのではないか)の延長にあったのではないか、という議論もあるだろう。この点に関しては稿を改めて論じたい。
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