ソクラテスの弁明はそれ自体が大いなるイロニーである。彼が告発に対して弁明を行うのは、自らの生のためではなく、神からの賜物である得難い人物(ソクラテス)をアテナイ市民が永久に失うという罪を犯すことがないように、である。それは、過去にも多くの善人をほろぼしたものがほかならぬ大衆の誹謗と猜忌とであることを熟知した男の発言であることを忘れてはならない。
彼が、この最大の危機に直面しながらもそれがために悪評を招き、告発されるにいたった活動−他者の言説と行為の整合性の吟味−をやめない理由は三つある。一つには、死をおそれて恥辱にあまんじるべきではないこと。二つ、人間に従うよりもいっそう多く神に従うべきこと。最後に、死はいまだ何人にとってもそれが善きものであるか悪しきものであるかが自明でなければ無闇にこれをおそれる理由のないこと。告発者はソクラテスに恐るべき死を与えた。だがむしろ死をおそれるのはほかならぬ告発者ではなかったか。なんともわからない死に「夢ひとつない眠りの快さ」をさえ重ね、それが善きものかもしれないことをほのめかすソクラテスの無邪気さを、ひとは笑うだろうか。
しかしひとしきり笑ったあとに気付くかもしれない。死を善きものと期待することと無闇におそれることは、さほど変わらないのだということを。ソクラテスを笑ったわれわれの無邪気さをこそ、ソクラテスはたしなめたのだと。(八雲出)