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1980年代に入って登場したといわれる「文化史」(cultural history)――マーク・ポスターの論文集は、この「新たな」サブジャンルの可能性を分析している。「客観の記録」と想定されてきた旧来の歴史観を否定しつつ、ポスターはこれからの歴史学をポスト構造主義との接点に見い出そうとする。
本書はまず、批判から始まる。ポスターによれば、歴史学者ローレンス・ストーンは、体系的な「真実」を想定し、歴史の非連続性や切断を無視する、という過ちを犯している(第1章)。ジョイス・アプルビー、マーガレット・ジェーコブズ、リン・ハント、そしてフランソワ・フューレも、価値観の相対化を認める一方で、歴史に「客観」という時代錯誤的な存在を求めようとしている(第2、3章)。
かわって本書の主役はセルトー(第4章)とフーコー(第5章)を中心とするポスト構造主義的歴史観だ(ここでこの2者ははたしてポスト構造主義者なのか? という問いは省くことにする)。合理的、科学的枠組みから抜け落ちてしまう消費活動の「非合理性」、そして『知の考古学』においてフーコーが格闘する言説形成体やアルシーブといった概念−「文化史」は、そういった従来歴史学者の間から無視されてきた思考を積極的に吸収していかなくては旧来のロゴス中心主義的歴史観は超えられない、と結論づける。
『文化史とポストモダニティ』の問題点は、まず「文化」の定義を避けている点にある。ポスターは「文化史」をポスト構造主義以降の産物と位置付けているが、広義に考えれば文化史とは、そもそも「文化」そのものが上流階級の社会風俗を指す概念であった19世紀あたりから存続してきたジャンルだといえるはずだ(レイモンド・ウィリアムズなどを参照)。また、ポスト構造主義的視点に立たなければ「いい文化史」は書けないのか、という疑問も残る。特に言説の矛盾や断絶を暴かずに終わる文化研究にも、史書としての価値を多いに見い出せると考えられるからだ。
しかしながら、ポスターの主張する狭義の「文化史」を文化史そのものの可能性を広げる方法論の一つと考えれば、その価値は決して小さくない。特に歴史学、社会学、哲学など規制の学問領域をまたいだ対話を試みている点で、本書の功績を認める必要がある。ヘイデン・ホワイトの『メタ・ヒストリー』を頭ごなしに批判した歴史学者にも、是非読んでもらいたい一冊である。(北村洋)
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