本書のねらいは、二つある。1.新技術として楽観的に称揚されることに始終しがちな<ヴァーチャル世界>――ヴァーチャル・リアリティ技術などによって構築されるイメージの世界――について、その技術や概念がはらむ諸問題を検討すること、2.日々変化する技術的な側面のみからではとらえがたい<新表記法>であるヴァーチャルな表現について思想的位相から分析を加え、その可能性/限界を探ること(本書では主に芸術作品としてのヴァーチャル・イメージをめぐって展開される)。この二つである。
計算機によってつくり出されるヴァーチャルなイメージは、現実と我々の関係を新たな光のもとに照らし出す。ヴァーチャル世界は、わたしたちを(ヴァーチャル・イメージが介在しない)現実から離れ・再びそこへ還ることを可能にするものだ。ちょうどわたしたちが祖国を出ることによってそれを対象化するように、ヴァーチャル世界が可能にするもうひとつの「現実」(たとえば非ユークリッド空間という現実)に出てゆくことによってこの現実を対象化することができる。
ヴァーチャル・イメージが単なるイメージではないことにも注意が必要だ。ヴァーチャル・イメージは、つねに<数>を媒介としている。どういうことか。イメージに限らずともよい、コンピュータのソフトウェアの仕組みを思い出そう。プログラムの実体は命令やデータとして解釈される一群のコード(記号)である。ごく簡単に言えば、この命令がコンピュータの内部で実行されるに際しては、最終的に二進数の数列つまり電気信号の ON/OFF に変換される。そして命令が解釈され実行された結果、たとえばディスプレイに特定の画像が出力されることになる。ヴァーチャル・イメージがコンピュータを用いてつくられるデジタルなイメージである限り、それはまずメモリ上の数値として存在する。これが<数>を媒介とするという意味だ。
ケオーによればヴァーチャルとは「原因が現実に、かつ目立たない形で存在すること」だ。つまりヴァーチャル・イメージはまず数値的なモデル=原因として存在することにおいて、正しくヴァーチャルなイメージである。他方「現実になりうるもの」をポテンシャルと呼ぶ限りにおいて、そのモデルから生成されるイメージはモデルの内にまさしくポテンシャルに存在すると言えるだろう。ヴァーチャル・イメージにおけるイメージ(知覚可能なもの)とモデル(理解可能なもの)の関係を幾重にも反復してみせること。ディスプレイに結ばれる結果としての像と見えない原因としてのモデルの関係を考察すること。
未だプリミティヴな段階にあるとはいえ、けっして一部の物好きのためのものだけではなくなりつつあるヴァーチャルな世界。人がますますこの世界にかかわる度合いを増大する今日、ケオーの提示する問題は普遍性をもつひとつの問題である。(八雲出)