「『デカルト的』(カルテジアン)という形容詞と合理性の観念とを結ぶ確固たる絆を断ち切り、この言葉を『方法的』とか、あるいは『論理的に首尾一貫している』ことの同義語として用いる習慣からわれわれを解放することができる著者がいたら、それは神話の強力な破壊者であると言えよう」――開口一番にルヴェルは本書の目的をこう告げる。そして本書の全体を通じて、ときおり反動的にさえ見える口吻をまじえながら、つぶさに
デカルト批判を展開する。
批判点は多岐にわたるが、とりわけその中心となるのはデカルトが形而上学(神の存在証明)を基礎とし、自然学その他をこれに従属させるその発想である。そしてその際、デカルト哲学の思考のエンジンとでも言うべきあの方法、明証により直観した絶対確実な出発点からすべてを演繹・導出する方法に対しても「明証は客観性を装いながら、しかも実際には主観的であるかもしれない」との反論を寄せる。ルヴェルによれば、問題はむしろ「明証と真理の関係の諸条件を決定すること」である。
デカルトの体系はその形而上学を基礎としてつくりあげられた。そうである以上、その自然学・生理学・心理学的誤謬を切り離し、それらの原理である形而上学的なもののみを称賛する態度に釘をさしつつ、著者はデカルトが同時代のガリレイらによってもたらされた「知的革命」である「実験的帰納法」を理解していなかったと指摘する。ここにデカルトの形而上学的合理主義とガリレイに代表される方法論的合理主義の差異を強調し、著者は冒頭にかかげた目的を果たすことになる。
さて、徹頭徹尾デカルトを批判したおす本書は、一見して批判のための批判書のようではある。なぜなら、それはデカルトの主張を批判することに始終するのみで、デカルトの問題をデカルトに代わって答えるものではないからだ。批判にせよ擁護にせよ、それ自体を目的とした批判/擁護はつまらない。また否定の力を安易な弁証法の図式に回収してしまうことも避けたい。われわれは本書を、デカルトにまっすぐ向き合い、その可能性の中心において読むための道具とすることができる。
なお本書の原書は現在、Le lievre de poche 版の Discours de la méthode に序文として収められている。(八雲出)