リチャード・ドーキンス

『利己的な遺伝子』

Richard Dawkins : The Selfish Gene (New Edition)


■書誌■

著 者
 リチャード・ドーキンス   Richard Dawkins 
書 名
 『利己的な遺伝子』   The Selfish Gene (New Edition) 
訳 者
 日高俊隆、岸由二、羽田節子、垂水雄二   
叢書名
 科学選書 9   
出版社
 紀伊國屋書店   Oxford University Press 
頁 数
 550頁   
定 価
 2718円(本体)   
発 行
 1991年02月28日   1989
ISBN
 4-314-00556-4   

■書評■

「利己的な遺伝子」とは、ドーキンスが本書において披露した生物進化を説明するためのキー概念である。この考え方の核心は、「われわれおよびその他のあらゆる動物は、遺伝子によって創りだされた機械にほかならない」(p.17)という言葉に集約される。つまり、生物進化の主体はわれわれ個体ではなく「遺伝子」だということだ。別の言葉でいえば、生物の行為やありかたは「遺伝子の自己複製」というレベルからのみ統一的に理解できる、ということである。だから、われわれ個体は、遺伝子が自己複製のために形成した派生的なものだとみなすことができる。これによって、今まで謎とされてきた数々の動物の行為が鮮やかに、しかも単純明快な図式によって理解できるようになった。例えば、生物の利他的な行動、どう見ても個体の生存にとっては不利であると思える行動(ミツバチやアリのワーカーなどの)が、この理論によって整合的に理解できるのである。(註1)ここで注意したいのは、利己的な遺伝子というときの利己性とは、個体のそれではなく、あくまでも遺伝子の利己性だということだ。かといって、遺伝子が「そう考えて」行動しているというより、これは遺伝子の自己複製がより大きな頻度をもって行われるような形質をもった個体が「結果として」生存し増殖するということであり、個体の側からいえば、個体の性質も行動資質も、遺伝子の再生産を効率化するような仕方で形成されるということだと解釈したほうがよさそうだ。(註2)遺伝子は種のためでも個のためでもなくそれ自身の増殖のためにのみ働くということであり、われわれは他の生物と同じくその「結果として」生まれたのだ、ということを本書は語っているのである。 (註3)

さて、この利己的な遺伝子という考え方が人口に膾炙するうえでたいへんな貢献をしたひとたちがいる。彼/彼女らは、浮気や嫁いじめなどのすべての人間社会の現象を快刀乱麻を断つがごとくスッキリと説明してしまうすばらしい能力をもっている(註4)のだが、これらのトンデモなひとたちにたいしてのコメントは、ここでは控えておく。まったく、誤解・興奮・熱狂・迷妄・憎悪がどろどろと渦巻くこの遺伝子をめぐる世界につきあうことを考えただけでどっと疲れがでてしまう。そこがおもしろいともいえるのだが。(吉田浩)



(註1)ミツバチのワーカーはメスでも子供を生まずに姉妹の世話ばかりをする。それはなぜか。ミツバチはアリと同様に、単・2倍体という特異な遺伝形式をもつ。メスはわれわれと同様に両親から1組ずつ受けた2組の染色体をもつ(2倍体)のにたいして、オスは未授精卵から育つため、1組の染色体しかもたない(単数体)。つまりオスには父親がいない。またメスは父親の全遺伝子を受け取り、これに母親の遺伝子の半分を受け取る。このことから計算すると、姉妹どうしは遺伝子の4分の3を共有していることになる。異常に血縁度が高いのだ。親子の間の血縁度は2分の1だから、メスは自分自身の子どもより、姉妹との血縁度の方が高い。つまり、自分で子を産むよりも、姉妹に献身した方が遺伝子を多く残せるのだ。このことからアリやミツバチ、および多くの狩りバチに特徴的な、自分は子供を産むことのない、献身的な姉妹相互の「真社会性」の高度の発達が説明される。

(註2)もっとも「遺伝子だって考えます」と考えることもできるし、そうすれば註3で指摘する循環論法を避けることができる。もし「力への意志としての遺伝子」という考えを受け入れることができればの話だが。

(註3)しかし、「遺伝子の自己複製がより大きな頻度をもって行われるような形質をもった個体が結果として生存し増殖する」という言明は循環論法だと考えることもできる。「遺伝子の自己複製がより大きな頻度をもって行われるような形質をもった個体」とはすなわち「結果として生存し増殖する個体」であり、「結果として生存し増殖する個体」とはすなわち「遺伝子の自己複製がより大きな頻度をもって行われるような形質をもった個体」であるほかないからだ。ちなみに私は別に循環論法が悪いといっているわけではない。トンデモなひとたちは、この循環に「力への意志としての遺伝子」という形而上学的究極原因を導入することによってはじめて安心するのである。

(註4)もっともドーキンス本人にもその素質は少なからずあるといえる。たとえば、以下の発言を参照。「われわれの遺伝子は、われわれに利己的であるように指示するがわれわれは必ずしも一生涯遺伝子に従うよう強制されているわけではない」(p.18-19)、「われわれが利己的に生まれついている以上、われわれは寛大さと利他主義を教えることを試みてみようではないか」(p.18)。ここで彼が、知ってか知らずか「利己的」という言葉を適用する際に個体のレベルと遺伝子のレベルとを混同し、話をオモシロクしていることは明らかであろう。



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