あなたなら「知識人」という言葉から誰の顔を思い浮かべるだろうか。そしてその人間のどういうところが、あなたに彼/彼女を一人の知識人であると思わせるのだろうか。本書を開き、サイード氏の主張に耳を傾ける前に、そう自問して考えてみることは無駄なことではない。わたしの場合、ソクラテスと他ならぬサイード氏がとっさに想起されたが、これについては別に述べる機会もあるだろう。
さて、サイード氏のいう知識人とはどのような人物であるか。彼が第一に重要性を認めるのは、物質的利害にそそのかされたり、圧力に屈して意見を変えることなく、ある立場を「代表=表象 represent」することのできる人間という側面である。ただしこの場合、知識人は、ある立場(たとえば自民族)を特権化するのではなく、普遍的たることへの意志のもとにその役割をはたさなければならない。このような態度をとる者には、他者を律するためのルールはそのまま自己をも律するルールであると考えるだけの距離感が不可欠である。
また「Aが正しいのか、それともBが正しいのか」といった形の(あるいはその他の)問いを無批判に受け入れるのではなく、吟味した結果必要なら「いずれも間違っている」ことを指摘する覚悟と意志を持つこと――相手が誰であっても、また利害にしばられずに指摘すること――も同様に知識人の仕事である。
権力・権威に飼い慣らされ堕落する危険に満ちた専門主義よりは利害に無縁なアマチュアリズムに徹するべきこと、慣習的思考や伝統によって見えなくなるものを亡命者の視線によって異化することの有効性など、本書において、サイード氏は「知識人なる人間の使命」にことよせて知識人の彼/彼女らがいかに振る舞うべきであるかを語っている。しかしここで読者は「知識人ではないわたしには無関係だ」などと思っていけない。誰が知識人であるかという区別はこの際まったく重要ではない。これら困難だが真摯に思考するために必要だと思われることを、サイード氏はほかならぬ読者(視聴者)にむけて提案しているのだから。
本書は1993年にBBCで放送されたリース講演にもとづいてつくられた書物である。(八雲出)
追記:その後、本書は平凡社ライブラリーの一冊として装いを改めた。