進化論は、「汝自身を知れ」というデルフォイの神託をほんとうに実現できるところまでわれわれを導いてくれるだろうと本書はいう。いままで哲学や心理学、社会学といった個別の領域で独立して行われてきた研究は、進化論の考え方を導入することで飛躍的に発展するだろう。その意味で進化論とは、「思想と社会系のグランド・セオリーの接着剤」(p.11)なのである。本書では、進化倫理学、進化心理学、進化論的認識論といった進化論の知見をとりいれた新興の理論が、人間を研究するうえで重要な貢献をするだろうということが、さまざまな領域において確認される。この混迷する現代においてこそ、人間のなりたちや営為を統一的な視野から理解する進化論的な考え方が求められているのである。
以上、本書のメッセージをまとめてみたが、正直多くの疑問を感じる。もっとも、本書は進化論の歴史と今後の適用可能性を手際よくまとめた好著だと思うので、それらはむしろ進化論一般に関するものである。そのすべてを詳述することは本コーナーの趣旨に反するので、ただ一点、進化論の科学としてのありかたにたいする疑問を以下に指摘するにとどめておく。たとえば著者は、「ぼくたちの日々の生活において、道徳的な指針となるものを求めている」(p.100)と言う。(人間の行動を導く指針としての)倫理への進化論の適用は、本書の重要なテーマのひとつだ。進化倫理学の登場である。ところで、以下のふたつのケースを考えてみよう。
- 「俺の子どもはもしかしたら身長が12mになるんじゃないか」と心配している人間に指針を与える。
- 「俺は子どもをつくるべきか、そうでないか」と悩んでいる人間に指針を与える。
1の場合。この場合は、子どもはひょっとしたら2mくらいにはなるかもしれないが12mにはならないだろうということを、進化論の知見に基づいて説得を試みることができる。人間の進化史を見るかぎり170cmの親から12mの子どもが生まれることはまず考えられないという結論を提示されたら、それで男は納得するかもしれない。しかし、ここで男を納得させるのは進化倫理学ではなくて単なる進化論である。進化倫理学の出る幕はない。2の場合はどうか。子どもをつくるべきかそうでないかを決定するには、ある種の倫理的決断が要請されるようにも思えるので、ここでこそ進化倫理学が登場しなければならない。しかし、人間の遺伝のメカニズムや環境への適応、そこではたらく自然選択のメカニズムの知見を総動員して人間の進化史を説明したところで、この男に何らかの指針を与えることができるのだろうか。あるいはできるかもしれない。しかし、この男がより望んでいるのは、経済的条件に関してや配偶者との関係などに関するアドバイスであろう。ふつうこれらをわれわれは進化倫理学的なアドバイスとは呼ばない。いったいどこに進化倫理学の入り込む余地があるというのだろう。しかしここで進化倫理学者はこう反論するかもしれない。「人間というものは(自然環境だけではなく)経済的条件や配偶者との関係などの、俗に文化的といわれる領域をもひっくるめた環境に適応して進化してきたというべきであり、そうであれば経済的条件や配偶者との関係についても進化論の知見を動員したアドバイスができるだろう」と。そして有益なアドバイスを行うに違いない。しかし私は言いたい。そのアドバイスをしたところで、この男に何らかの指針を与えることができるのだろうか、と。この段階で男が望んでいるのはむしろ、この男がいったいどういう生活を幸せと考えているのか、どういう生活をすれば満足がいくのか、ということを明らかにさせてくれるようなアドバイスであろう。しかしふつうこれらをわれわれは進化倫理学的なアドバイスとは呼ばない。いったいどこに進化倫理学の入り込む余地があるというのだろう。しかしここで進化倫理学者はこう反論するかもしれない。「人間というものは(経済的条件などだけではなく)生きがいのような心的現象も長い長い適応を経て進化させてきたというべきであり、そうであれば生きがいのような心的現象についても進化論の知見を……」。もういい。要するにこういうことだ。進化論は何でも説明できてしまうのだ。それが、「いまあるものが最善のものであり環境に適応することで生き残ったものである」という前提のもとにその理由を探るものである以上、必然的にすべてを説明してしまうものにならざるをえないからだ。だから進化倫理学の欠点とは、人間の倫理観の由来や特徴を説明できないかもしれないということにはない。むしろ、そのすべてを説明できてしまうことなのである。(註1)駄目な小説家がエッセイで愚にもつかない人間論を語ることや、赤ら顔のオヤジが居酒屋で「結局そうなっているんだよ」と語ることと、それはどう違うのか。本質的には何も違わない、というならそれでよろしい。それは私の現時点での結論でもあるから。しかし、そうであれば「進化倫理学」などという、科学の威光を利用した詐欺的な名前で自らを称することはやめなければならない。すべてを説明できてしまう居酒屋談義は科学にはなりえないからである。進化倫理学が「人間はなぜ道徳的でなければならないと考えるようにできているのか」というセントラル・ドグマ(中心教義、不可侵の前提)をもっている以上、この学問はセントラル・ドグマの成り立ち自体を探る系譜学的な<問い>の存在を認めない。この学問ができることはただ、セントラル・ドグマにたいする物語論的な<回答>を与えること、セントラル・ドグマの理由づけを行うことのみである。進化倫理学者は、「現象(各種データ)によって理論(セントラル・ドグマ)が倒されることはあるかもしれない」と言うかもしれない。しかし、たとえばバイオフィリア仮説についての「自然に対する人間の好みも、サヴァンナへの適応現象として説明できるのではないか?」(p.200)という著者の言明は何を意味するのだろうか。この言明は、「そもそも人間とは自然を愛するものだ」という価値観がなければ成り立たないものである。逆に、「そもそも人間とは自然を嫌悪するものだ」という価値観があれば、また別の整合的な進化倫理学が成り立つだろう。要するに進化倫理学においては、各データはセントラル・ドグマに適応されるようにのみできているのであって、データが理論を倒すなどということは原理的に不可能なのだ。進化論が扱う進化とはその定義からして、ある生物が現在のありかたにむかって適応することにほかならないからである。念のためにつけくわえておくと、これは進化論の科学としてのありかたそのものにたいする疑問なのであって、「反生物学主義」なるものとは無縁の疑問だということである。著者も述べているとおり、「反生物学主義」など何ほどのものでもない。むしろこれは、本書ならびに進化論全体が看過している(それはこの学の前提に関する事柄だからむしろ看過「されなければならない」たぐいのものだ)問題についての指摘なのである。(吉田浩)
(註1)2の例において、1回目の進化倫理学的アドバイスと2回目のそれとは議論の次元が変わっていることに注意したい。次元がより高次になっているということもできよう。だからこの場合、進化倫理学の利点として「進化論の知見で明らかにされたところを指摘することによって、男の決断の可能性と限界、つまりは男の決断の範囲を(ネガティヴに)画定することができる」という点があげられるかもしれない。しかしそう好意的に解釈したとしてもたちまちふたつの問題が生まれる。ひとつめは、それははたして進化倫理学なのかという問題。それは単に進化論ではないのか。もしここであげたようなアドバイスが進化倫理学の役割だとしたら、進化倫理学とはすなわち進化論を理解することそのものであるという妙な結論になる。ふたつめ。それは、このアドバイスの高次化はとどまるところを知らないのではないか、という点だ。私がふたつめのアドバイスの途中で「もういい」といったのもその理由からである。この例においてはアドバイスの高次化は無限に続くように思われる。逆にいえば、いくらアドバイスが高次化したところで、いやアドバイスが高次化することによってむしろ、男がほんとうに望んでいるのがもうひとつ高次のアドバイスになってしまうだろうということだ。無限退行ならぬ無限高次化である。これはどこか、機械論と生気論の関係に似ていまいか。