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上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』 ×吉田裕『日本人の戦争観 戦後史のなかの変容』


■書誌■

書 名  『ナショナリズムとジェンダー』      書影
著 者  上野千鶴子 
出版社  青土社 
頁 数  229頁 
定 価  1900円(本体) 
発 行  1998年3月15日 
ISBN  4-7917-5608-8 

書 名  『日本人の戦争観 戦後史のなかの変容』  書影
著 者  吉田裕 
出版社  岩波書店 
頁 数  242頁 
定 価  2140円(本体) 
発 行  1995年07月25日 
ISBN  4-00-001719-5 


■書評■

吉田裕の『日本人の戦争観 戦後史のなかの変容』は、戦後50年にわたって第2次大戦がどのように記憶されてきたかを論じる。筆者が特に着目するのは、なぜ戦争責任が半世紀にわたってあいまいにされてきたのか、そしてどうして「旧時代の遺物」でしかない自衛戦争論が根強く影響力を発揮し続けるのか、の2点である。これらの疑問をひもとく手がかりは、筆者によると歴史的に日本が主張し続けたダブル・スタンダードにある。このダブル・スタンダードとは、対外的にはアメリカとの同盟関係を築く必要上、東京裁判で唱えられた戦争責任を「必要最小限度」容認する一方で、国内においては、戦争責任を事実上、否定するというギャップに他ならない。こうした価値観の使い分けが行われるなかで、戦後50年にわたり、日本国民の間にアジアに対する優越感/軽蔑意識が保存され、加害者意識に関する自覚がうやむやにされていく。戦後処理や戦争責任問題を回避する流れは、軍艦マーチをはじめとする軍歌の流行、戦記もの(単行本)の出版ブーム、全国戦没者追悼式の行事化、少年雑誌における戦記ものの増加、宮中グループ史観や海軍史観の台頭など、さまざまな形で表象される。

戦争がどのように記憶されてきたかを記述しようとする吉田とは違い、『ナショナリズムとジェンダー』における上野千鶴子の目的は、第2次大戦史の「再審」を試みることにある。本書は、過去に上野が『家父長制と資本制−マルクス主義フェミニズムの地平−』などで検証した「市場」や「市民社会」といった要素の他に、「国民国家」の概念を近代化の一環としてとらえなおし、それをさらに「ジェンダー化」しようと試みる。具体的には、戦時中の日本国家において、女性が従属的位置に抑圧されながらもいかにして「国策化」されていったか−上野はこの問いを、「反省的女性史」というクリティカルな立場から再考する。

「反省的女性史」は、まず戦時中の女性を、従来の「被害者史観」から「加害者史観」へと読み直す立場を指す。つまり女性の「戦争協力」や「戦争責任」を、女性の主体的活動として捉えることが目的となるのだが、上野は戦前のフェミニスト市川房枝、平塚らいてう、高群逸枝らといったいわゆる指導者的位置にたつ女性のみならず、体制の中で「国民化」されていった庶民女性まで、範疇に規定する。しかし、そのまた一方で女性には「娼婦性」も要求され、「従軍慰安婦」たちがその役割を担うことになる。日本政府から正式な補償を受けることもなく、「正史」からも排除されてきた「慰安婦」は、上野が鋭く指摘するように「『性の2重基準』を作ることで自らルール破りをしてきた家父長制のディレンマが見いだした苦しい解決法」となる。エリート指導層の女性、一般女性、そして「慰安婦」−従来歴史の範疇から無視され、または黙殺されてきた女性の主体性を、上野は言説のなかに呼び戻そうとする。歴史を「無限に再解釈を許す言説の闘争の場」と考える著者は、いわゆる「自由主義史観」を掲げるグループを痛烈に批判しながら、戦争下における女性史の再解釈を強く主張する。

両書がともに指摘するのは、権力の側から書かれる「正史」が、いかに戦後50年以上たつ今日においても根強く存続しているか、という点である。特に上野がいうように、「慰安婦」に関連する資料が組織的に破壊されたのを理由に彼女らの存在を否定する立場は、超越されるべき歴史観にすぎない。90年代に入って「大東亜戦争肯定論」が弱まりつつある、と記述する吉田も、「私たち日本人自身の戦争観や戦争責任観が…いかなる歪みや偏りをもって形成されてきたのか」再考しなくてはならない、と唱える。つまり第2次大戦という「記憶」の大幅な書き替えが求められている、と両者は説くのである。

そうした共通点のあるなかで、両者の方法論は根本的に異なる。吉田が現存する言説をそのまま分析するのに対し、上野は言説を権力と力の構造に位置付ける。したがって後者の焦点は、一次資料そのものが排除し、抑圧する主体(つまり女性)に当てられる。前者の言説には女性がほとんど存在しない点は、後者から当然批判を受ける要素となる。しかし、吉田の分析は単に閣僚や政治家の公式見解にとどまらず、少年雑誌、一般統計、「無名の将兵」といった「大衆的範疇」にも当てられる。前者の階級や年齢を踏まえた仕事は、後者と合わせて読めば「戦争・戦後」の有益な理解につながる。

しかし同時に、疑問もいくつか残る。例えば吉田の「ダブル・スタンダード」−これは岸田秀の「外的自己/内的自己」に類似した解釈であるが−これを対外的/国内的と分けるのは、国際社会の差異を考慮すればいささか単純なように思える。そして、上野のいう「被害者史観」から「加害者史観」への転換。上野が提唱するこのパラダイム・シフトには、歴史学的な視点からいえば、まだまだ慎重な検討が求められる。戦時中の女性を「加害者化」するにあたり、上野は主に自由主義史観が抱く「見せかけの実証史学」を批判する手法をとるが、逆に一次資料の有無をもとに建設的に女性−特に庶民女性−の「国民化」を示す作業が不十分に終わっている。一次資料の欠如は、上野も認めるように女性史一般が抱える一番の問題点だ。だからこそ、女性史家はなおさら、この障害を克服するためにも、女性の主体性を一次資料との格闘の中で示さねばならない。

むすびになるが、両書とも、戦争がどのような偏見をもとに記憶されてきたのか、そしてどのように解釈されるべきなのかを考えるには有益な考察である。特に吉田の独創的な資料の選択/分析、そして上野のように積極的に第2次大戦史の再審を促す姿勢は、国際社会における日本のありかたを見つめるにあたり、不可欠だと考える。「戦争」そのものについてだけでなく、「戦後」とはなにか、という大きな問いについても考えさせられる、刺激的な二書。(北村洋)



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