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| 作品の愉悦――2002年01月05日-2002年12月17日 |
★「大レンブラント展」(京都国立博物館)
ともかく。「大レンブラント展」である。京都での出品点数は43点。文字通り世界中の美術館や所蔵者から借り集められてきた作品がこのように一堂に会す機会がこれまでどれほどあったのかは知る由もないが、この関係諸氏の尽力の結晶を前にしてはともすると「あの絵が来ていないのか」などと嘆息したくなってしまう狭量などどこかへ霧散する。 画歴の初期を飾る「宦官の洗礼」(1626)からはじまって、最晩年の「ティトゥスの肖像」(1667-1668頃)に至るまで、記憶する限りのレンブラントの生涯を思い起こしながら絵と向かい合う。美術研究者ならぬ一門外漢としては、観る場所、観る時、(誠に勝手ながら)自分のコンディションなどによって作品に対する好悪、出来不出来の感想がさまざまであるのだが、レンブラントの油彩でいつ観ても強い印象を受け取るのは、ほかならぬ画家の自画像と愛息ティトゥスの肖像、そして解剖の光景を写した作品だ(今回出品されているのはすべて油彩で、フォシヨンが熱を込めて賞賛しているエッチングは、博物館の庭に設置された販売店にかけられた複製でわずかに観られたのみだった)。
一体レンブラントには何枚の自画像があるのか知らないが、今回出品されている「笑う自画像」(1662-1664頃)ほど魅力的な肖像もない。キャンパスの中からこちらを見て笑みをたたえた老人。妻と死別し、(身から出た錆とはいえ)財産を失った老人の笑みは、「いろいろあったが総じておもろかったな」とやや遠い目をしながら人生に別れを告げようとしているようにも見える。――などという私の妄想の内容が重要なのではない(もちろん)。レンブラントの老人力と画家としての力は、観る者のうちにそうした妄想(という言葉がお嫌いなら「想像」と言ってもよいですが)を掻き立てながらけっして〈正解〉(この肖像が示す感情の正しい解釈)などという野暮なものに到達し得ないことをたちどころに教える。そんな御託をつらつら考えながら、何度観ても深沢七郎に見えてしかたのないこの肖像画を眺めた。
画家は、息子ティトゥスの肖像もまた多数残している。今回の展覧には3枚の肖像が出品されている。 「机の前のティトゥス」(1655)――十代半ばの少年が、机にのせた紙束に向かい、羽ペンをもった右手の親指を頬につけている。その大きな瞳は、どこか遠くを眺め、彼が物思いにふけっていることがわかる。夕餉のメニューを想像しているのではないことは私にもわかるが、さりとて何に思いを馳せているのかは(当然のことながら)知りようもない。 他の注文による肖像画の、どこか作ったような、とりすましたような様子(いや、モデルがとりすましているのか!)と一連のティトゥスを描いた作品は一線を画しているように感じられる。それは画家の熱のこもりようの差なのか、観る私のせいなのかにわかにはわからない。しかし、たとえば「ウィーン美術史美術館展」(東京藝術大学大学美術館、2002/10/05-12/23)に出品されていた「読書する画家の息子ティトゥス」(1656-1657頃)を観ても、この書見する若者の表情の美しく豊かなことといったらない。書物のページに目を落とし、文字を朗読しているのか、読書に夢中になっているためか、少し口を開けた様子などは、思わず「読書っていいねぇ、読書ってすばらしいねぇ」とわけもなく賞賛したくなる。 若者の活字離れ――という現象が本当にあるのかどうかよくわからないものの、戦後だったか岩波書店が『西田幾多郎全集』を刊行したさいに、それを買い求める人々が前の晩だったか一週間前だったかから行列してこれを買い求めたという写真などを見ると、今は若者に限らず活字から離れているのかしらんと思いそうになるものの、でも書店に行くつど人々が周囲や自分の状態などいっさいおかまいなしで雑誌コーナーに群がり熱心に書見している姿を見るとはたしてそれも本当かと眉につばしたりもするわけで、ほんとのところはどうなのかわからなくなるのですが。いやよもや書店に新しい『西田幾多郎全集』(岩波書店)を求めに行っても置いてないのはすでにそのようにして売りきれたからであったか!――を憂える前に、学校の先生はこの「読書する画家の息子ティトゥス」をば児童・生徒らに見せあるいはカラーコピーなどで複製を拵えて配るなどして、「ほらね、読書っていいでしょう? 読書ってワンダフルでしょう?」と勧めるならば、それを理解した子供たちがもはや本を読まぬときはないというくらい書見があたりまえのこととなり、街のあちらこちらで人々の美しい書見姿を見かけることができるようになる……わけはないか。 ともかく。ティトゥスがレンブラントよりも前に歿してしまうことを知っているわたし(たち)としては、いくら「センチメンタルなことをしてはいけない」と思いながらも、若者が歿する前と思われる少しやつれた、けれども相変わらず大きな瞳と巻き毛が美しいこの青年の肖像に、ひきこもごもを感じてしまうのである。 さて、少なくとも「ヨハン・デイマン博士の解剖学講義」(1656)――所謂「脳出し」ってやつですか――に言及してから筆を擱きたかったのだが、すでに大量の与太話によって予定を超過していることでもあるので今日のところはここまでにしたい。
――と言いつつ余談を続ける。いや、気分転換にコーヒーを飲んだらもう少し続けようという気持ちになったのだ。はからずも。結構ままならないものだと思いませんか、自分の頭って。それはともかく、その私の頭は、レンブラントとくると自動的にスピノザの名がたぐりよせられるようになっている。何の因果かかつて繰り返しそういうことを考えたことがあるために、この二つの名前は私の中ではセットになっているのだ。そういうことってあるでしょう? AといえばB。ツーといえばカー。これを莫迦の一つ覚えとも言いますか。 しばらく前(それは前世紀のことだ)に、スピノザを集中的に読んだことがあった。両者は同時代人ということもあって、スピノザの文献を漁っているとしばしばレンブラントに出くわす。にわかには出てこないが、書棚のどこかに古本屋で入手した Spinoza and Rembrandt という書物もある。このような出会い(スピノザ文献を読む⇒レンブラントに出くわす)が反復されると、おのずとどこかから(スピノザのみならず)レンブラントを(も)検討せよ、という声が聞こえてくるようになる。 こうなると逃げるのはむつかしく、書店に赴けばあちらからレンブラントが「やあ」とか言いながらやってくる、ヴィデオ屋にいけばレンブラントに関する映像が目にはいる、美術展をのぞけばレンブラント(や同時代のネーデルランド絵画)を探す、茶や酒を飲むのにもレンブラントの姿を求め(ルノアールがあるならレンブラントぐらいあろうてなもんで。でもルノアールなら絵画とは限らないのか)、街を歩いても「レン」や「ラント」といった言葉に敏感になるなど、もう到底普通の生活は望めない。前にも書いたが、人はこれを〈電波〉という。そんな電波の力によって、今回は京都まで足をのばした次第(次回は近頃その回想録〔邦訳〕が版を改めた元祖電波(?)シュレーバー氏の『回顧録』について述べてみたい。他の電波に邪魔されなければ)。 「大レンブラント展」は、2003年01月13日まで。京都で見逃すと、つぎはドイツのシュテーデル美術館に足を伸ばすことになる(そう、東京には来ないのだ)。くれぐれも注意されたい。 そうそう、言い忘れていたが、出品作品以外にも多数の参考図録と情報を含む本展のカタログは充実していて有益だ。京都で買い逃すと、つぎはドイツのシュテーデル美術館……でも売られるのかどうかはわからない。注意されたい。 ★京都国立博物館‐京都国立博物館のWEBサイト ★大レンブラント展‐京都国立博物館WEBサイトの同展資料
★Rembrandt Rembrandt‐「アート・エキシビジョンのWEBサイトのレンブラントに関するコンテンツ
バスター・キートンは機械を操作する天才的な技術を持っている。個人的な好みから言うと、やたらと「天才的」などという言葉をふりまわしたくないのだが、そうとしかいいようがないのだから仕方がない。いや、「天才」だなんて、それさえ貼っておけばそれ以上その対象について考えなくてもよくなるようなレッテル(キャッチコピー)を安易に使わないほうがよいですね。と、考えなおしてなぜキートンがすごいのかを考えてみた。 どれでもいい、キートンが機械を操作している場面を思い起こそう。その機械はどうなるか? そう、機械はいつでもキートンを裏切り、かつ、キートンに忠実である。キートンが操作する機械は、まずキートンの言うことをきかない。しかし、キートンの言うことを聞かないことを通じて言うことをきく。おかしな言い方だけれど、この失敗=成功とでも言うべきキートンと機械の組み合わせの妙は、キートン作品を構成する主要な要素である。
大砲に火薬をいれて砲弾をこめるキートン。点火して結果を待たずに機関車両にいそいそと戻る。火薬に着火して大砲が火をふく! けれども火薬が少なすぎたのか、砲弾はごく小さな放物線を描いてキートンが乗る機関車両に撃ちこまれる。あわてて砲弾を捨てるキートン。懲りずにもう一回。今度はありったけの火薬をかんごと大砲につめて、砲弾をほうりこみ、着火。またしてもキートンは結果をまたず機関車両に戻る。するとなにかの拍子に大砲の砲身がすーっと首を下ろす。砲身はほぼ水平。このままじゃ危険な砲弾が機関車両を直撃だ。運転座席からふりかえって様子をうかがうキートン。砲身を見てぎょっとする。慌てて大砲の車両に向かうが、もう着火寸前。あわやキートン機関車ごと大破か、というそのとき機関車はカーヴにさしかかる。水平に発射された砲弾は、ちょうどキートンが乗る列車を円の弧だとしたらその円弧の弦をきりとるように飛び、キートンの機関車両の脇を抜け、初期の目的どおり前方をゆく北軍兵士の機関車に命中。やれやれ。 大砲はキートンの意図に従わず、砲身を下げた。このままでは敵をやっつけるどころか自分が危ない。けれども結果的には機関車と線路と大砲の組み合わせの妙により、大砲は最初の目的を果たす。意図どおりに働かないのに、結果的に意図を果たす機械。キートンの意図はいつも、キートンの意図しない(意図されない)経路を通って実現する。このギャップが笑いを誘うのだから、劇中のキートンがその成り行きを知らず、そんな状況を見て笑うことはない。当然であろう。当人はいたって真剣であり、必至でさえある。なにしろキートンは不服従な機械の埋め合わせをすべく、モーレツな勢いで立ち回らなければならないのだから。 キートンの映画にはこうした機械やギミックがあちこちに登場する。これは一体どういうことなのか、を考えてみるのはたいへん愉快なことであるので、もう少しゆっくり、ロッキングチェアーに身を沈めて舶来アルコールでもなめながら考えてみたい(ま、口だけですが)。
★バスター・キートン+チャールズ・サミュエルズ『バスター・キートン自伝――わが素晴らしいドタバタ喜劇の世界』(藤原敏史訳、リュミエール叢書28、筑摩書房、1997/06、Amazon.co.jp)
★「メトロポリタン美術館展――ピカソとエコール・ド・パリ」(Bunkamuraザ・ミュージアム)
第一は愚生の問題。愚生の問題というのは一に美術史に関する知識の貧しさ、ニに記憶力のなさ、三が根気のなさ。これだけ「ない」ものだらけじゃ仕方がない。 じゃあ、どうして美術史に関する知識の貧しさが問題なのか。もし私が膨大な美術史の知識を持ち合わせていたら、たとえその展覧会の出品作品の相互に強い脈絡がなくっても、自分の頭のなかで目の前にはない作品群との脈絡をつけながら作品を観られるでしょう? え? 「そんな脈絡など●くらえだ! 目の前にある作品を、ただそれだけを観ればいいのであって、本当なら題名やら作者名やらも邪魔なのだ。このとんちき」ですって? ごもっとも。あ、貴方はどちらさま? なに? 通りすがりのWEBサーファー? なるほど。よしなに。ところで、私もそういう貴方がおっしゃるような観方が好きですよ、なんて言いましたっけ、あのトム・ハンクスが主演のチョコレートを食べる映画のポスターに書いてあった……え? あ、そうそう「一期一会」 それですそれ。そういう感じはいいですねぇ。でも、せっかくなんだしそれだけにしないで、両面作戦で行ったらもっとハピーじゃないですか? 作品を題名や作者とは無縁の匿名のなにかとして充分に観ておいてから、やおら歴史の文脈に入れなおしてまた眺めるというんですか……え? 「しゃらくさい、この après-guerre かぶれが」って、貴方も可笑しなことを(それも妙にきれいな仏語の発音で)おっしゃる。さしずめ avant-guerre でいらっしゃいますか? って冗談はともかく話を戻しますけどね、美術史の知識を持っていたらそういう作品の観方ができるので、たとえ展覧会に陳列された作品同士の脈絡が薄くってもそれなりに愉しめるわけですよ。ね。記憶力のなさと根気のなさがなぜ問題なのかは説明するまでもありませんね。 で。第二は企画の問題。企画の問題というのはどういうことか少しく説明しますと――いいですか? こんな話をつづけちゃって? え? つまらなかったらすぐに余所に行くから気にするなですって? そういう率直なところが好きですよ。え? 気持ちの悪いことを言うな? 失礼しました――で、企画の問題というのは、実はさっき言ってしまいましたけどね、こういうことです。「某美術展」に出品される作品は所詮は一つの美術館に集められた作品が母集団ですよね。そこには自ずと限界があるじゃないですか。たとえばキュレーター氏が展示を考えながら、「本当は、この作品Aとこの作品Bの間にあの作品Cがあるとかなり具合がよいのだがなあ」と思っても、作品Cが自分のところになければ出すわけにもいかないでしょう? 某美術館展なる企画をするにあたっては、そんなことだらけじゃないかと思うんですよ、ってこれは想像ですけどね。ああ、で、愚生が言おうとしたのは、こういう次第で某美術館展なるものは、出品作品に脈絡が生じにくくって、それで観ているほうも散漫とした感じに疲れてしまうというか、美術展全体から受ける印象が弱くなるのかな、なンてことでした。実際、今年のはじめに観たいくつかの某美術館展なんてなぁんにも覚えちゃいませんよ(自慢じゃありませんけれど)。 まあそうはいっても、ある人が書店で買って帰った書物の組み合わせや、たまたま机に積んである書物の並び方のでたらめさだって、立派におもしろいわけですから、まあツベコベ言わないで愉しめばいいんじゃないかとも思いますけどね。ほら、たとえば、いまここに、私の机に偶然積み上げられている書物の山があるでしょう? って、書いてお見せしようと思いかけましたが我ながらあまりにも脈絡のない組み合わせなのでやめにしておきます。 え? それで「メトロポリタン美術館展――ピカソとエコール・ド・パリ」はどうだったのか、ですって? そうそう、肝心のことを忘れていました。いや、これが魂消ました。わざわざ「メトロポリタン美術展」だなんてつけなくても立派な展覧会ですよ、これは。まあ、さすがに200万点も作品を所蔵していると自前の作品だけでまかなえるのですね、感心です。 作品についてはコメントしないのか、ですって? 貴方も物好きでいらっしゃる。私のコメントなんか聞いても詮無いでしょうに。え? お前みたいな奴が偉大な作品からなにを受け取るのか後学のためにも聞いておきたい、って意地悪を言っちゃイヤですよ。貴方だって、この上下に延々と書かれている与太話を少しはお読みでしょう? だったらおおよそ何を言いそうかわかりそうなもんじゃありませんか。え? 御託はいいから何か言えって、そうですね、今回の展示ではバルテュス(Balthus, 1908-2001)の「目を覚ましたテレーズ」(Thérèse Awake, 1938)を直に観られただけで満足です。それにしても、テレーズの表情といい、脹脛(ふくらはぎ)から腿にかけての肌のきめといい、バルテュスは一体どんな筆をふるったのか、驚くばかりです。危うく額ごと壁から外してテイクアウトするところでしたよ。いえいえ、実際には図録や複製で満足しましたけどね。例によって図録その他の複製では作品から多くのものが抜け落ちてしまっていますが、これは一体どういうことなのでしょうね(一度真面目に考えてみる必要がありそうです)。ベンヤミンのように偉くなくても「アウラ」がどうこうと言いたくもなりますよ、ほんとに。まるで別物です。って、別物なんですけどね。 なんだロリコンか、って貴方、そういう言種はいけませんよ。第一そんな言種は、ちょっと粗雑すぎはしませんこと? 私だって「目を覚ましたテレーズ」はたいそう好きですけれど、それなら少女を描いた絵ならなんでもいいのかって言うとそうじゃありませんからして。だいたい、ハンバート・ハンバート氏だってロリータを愛していたのであって、同じ年頃の少女なら誰でもよかったわけでもないでしょうし(って、近頃あの小説を読み返してないのでハンバート氏がどう考えていたのか実際のところは記憶にないんですけどね。それはそうと本邦では近頃でもナボコフ先生の作品が邦訳されつづけていて嬉しい限りじゃありませんか)。いろいろ申しましたけど、つまるところわたくしは、粗雑な一般化はよろしくないと申したかったのでした。だって、いろいろな違いをなかったことにして十把一からげにしちまうなんて、場合によっては随分と侮辱的ではないですか。そうそう、ほら、「男ってもんはなあ(以下略)」とか「これだから日本人ってやつは(以下略)」とか。言われるほうも迷惑だし内容も空疎だし、やっぱりここは少し面倒でもあれとこれの差異にはそれなりに眼差しを注がないと……って話が逸れつつありますか。ま、それはともかく。もしあなたが私に対して「このロリコンめ」とおっしゃるかわりに「この、「目を覚ましたテレーズ」好きめ」と少し言葉の精度を上げておっしゃってくださればわたくしもクダクダとお話申し上げず、「ええ、そうですがそれがなにか?」とお返事いたしますのに。 屁理屈だ、ですって? いえいえどういたしまして。理屈というなら、貴方の言い様のほうがよっぽど理屈……え? なんです? その話はいいから他はどうだったのか、ですって? あいや、いろいろおしゃべりしたいことはありますが、まずはご自分の眼でご覧になってきてくださいな。そうしたら、あらためてお茶でも飲みながらゆっくり話しましょうよ。場所? ええと、場所はですね、渋谷の東急Bunkamuraです。そうですそうです、文化村通りをずっと奥まで行ったところ、そうです、Book1stを右手に見ながら(見るだけです。入るのは後まわし)さらに進んで、はい。会期? 2002/12/07-2003/03/09 ですね。え? はい、どうぞいってらっしゃい。ご機嫌よう。 ★メトロポリタン美術館展‐同展公式WEBサイト
★The Metropolitan Museum of Art‐メトロポリタン美術館のWEBサイト(英語)
★四谷シモン『人形作家』(講談社現代新書1633、講談社、2002/11、Amazon.co.jp)
文献や映像を通じて私の脳裏に構成された(いまもされつつある)その時代は、ことあるごとに想像に特有の過剰さでもって私の感情を触発する。その触発の在り方はたいていにおいて両義的だ。ノりつつシラケる/シラケつつノる、そんな感じだろうか。 ノる:一方では、猥雑で、エネルギッシュ、切羽詰った感じとそのゆえの過剰に発露する創造/想像力、人が目的を持って生きた時代、目的なんかなくてもなにかに熱中できた時代……実にエエ加減ながら現代に欠けている(あるいは何処かにあるのだとしても私には見えない)諸々がその時代にはあったのではないか、などと無根拠な空想をしたくなる。 シラケる:他方では、「なぜ人がそんなにも熱くなったのか?」と、彼岸の火事を冷静に見るようでもある。かく言う私はどちらかといえば、ヴェンダースが『東京画』(TOKYO-GA、西独+米、1985)で描いた、どこか裏寂れた日本にこそ現実味を感じてしまう者である。これらの騒ぎから(地理的にはともかく心理的に)はるか遠くに生きていた同時代人は、この騒ぎを遠くからながめてどう感じたのか、どう触発されたのだろうか? 他方でそういう関心がある。 例によって益体もない与太を書き連ねてしまったが、四谷シモン氏の自伝『人形作家』を読みながら、久方ぶりにそのような両義的な気分を味わった。本書は、1944年に生まれた四谷シモン氏が、人形創作に目覚めた契機、演劇への参加を経て、人形創作に打ちこむようになった遍歴を中心に、金子國義、高橋睦郎、澁澤龍彦、唐十郎、宇野亞喜良、コシノジュンコ、嵐山光三郎、金井美恵子、といったお馴染みの作家たちとの交流を描いている。四谷氏の生の記憶をつうじて時代の息吹がページから立ち上る。 唐十郎が主宰した状況劇場、紅テントのゲリラ的路上上演とそれが巻き起こした騒動のくだりを脳裏に想像構築しながら読む。私の想像中の劇団と観客と機動隊のもみあいは、どこか演劇めいて断片的であるけれど、さしあたってはこれで満足せねばなるまい。ページを繰る私には、現場の喧騒(いずれ、ユーロスペースかどこかで観た60年代東京を描いた映画の記憶であろう)も聞こえてくるのだからよしとしよう。他方で、嵐山光三郎氏が本書に寄せた序文「シモンとは何者であるか」の、思い入れたっぷりの回想を読むとき、なにか距離のようなものを感じる。それは、いいとか悪いとか、そういうことではなくて、体験なくしては共感しえない事実への距離感であろうか。
この半生の自伝は、現在につながっている。つまり、四谷氏が人形づくりに専念し、人形学校エコール・ド・シモンを運営する現在が語られている。ここまでくると、人形作品や書物、個展や他の作家による文章を通じて私も知っている四谷シモンがあらわれる。 人形について語ったくだりにこんな一文がある 「……この『ドイツの少年』だったか、澁澤龍彦さんが僕の人形を見て、『なんでもっとペニスを勃起させないの』と尋ねてきたことがあります。僕としては、ペニスに関しては日常のだらりとした感じがいい、たとえば勃起したペニスはフィニッシュしか連想させず、表現としてつまらないと思います」(p.127) 四谷氏に同感である。と同時に、澁澤龍彦が、もしその人形のペニスを勃起させたほうがよりエロティックに思われるから、という理由で上記のようなことを言ったのだとしたら、少しがっかりである。もっとも、上記のやりとりにおける澁澤の意図がわからないからこれは半分想像に過ぎないのだが。この少年(ドイツの少年)のペニスが(完全にではなく)勃起しかかっているところがいいのだ、と書いていたのは誰だったか、思い出せない。 ★四谷シモン――人形愛‐四谷シモン氏の公式WEBサイト
★エコール・ド・シモン‐エコール・ド・シモンのWEBサイト
★「狩野探幽」展――よみがえる江戸絵画の巨匠(東京都美術館) 狩野探幽(1602-1674)の作品から刺激を受けたためしがない。と言っても、探幽を嫌う積極的な理由を持っているわけではないし、なろうことならその作品との出会いからなにがしかの変容を受けたいと思う。今回は探幽をまとめて観るよい機会だと思い、東京都美術館へ足を運んだ。 本展は、「これが探幽だ!」「探幽様式の完成」「画壇制圧」「新たなる挑戦」という四つのセクションで構成されており、探幽の経歴を追う形で作品を観ることができる。二条城二之丸の障壁画「松鷹図」、名古屋城上洛殿、大徳寺本坊のための障壁画などのよく知られた作品に加え、「若衆観楓図」のような風俗画も出品されている。「達磨図」にはもっと圧倒されるかと思いきや、そうでもない。こういうのをそりがあわないと言うのだろうか。 今回の展示でもっとも興味深かったのは、例の「探幽縮図」と呼ばれる画帖である。小さな紙面に、山水花鳥、唐人や和漢の人物図があれこれと模写されているさまは、この人物の勉強家ぶりをしのばせる。「やあ、なんという勉強ぶりか探幽さん」 勉強ぶり? はて、勉強ぶりとは我ながら面妖な言葉だ。私は、探幽展の会場を出て、つぎなる目的地、東京藝術大学大学美術館へ向いながら考えた。寒空の下、ホームレスたちの青いビニールテント群は健在だ(前に来たときは、七輪で秋刀魚を焼いていたっけ)。無意識に口をついて出た言葉。これは誰の入れ知恵か、と。そんな疑問をしばし忘れて「ウィーン美術史美術館名品展――ルネサンスからバロックへ」を観る。同展でまみえることができた数点の作品から受けた強い印象を抱きながら、小雨が降り始めた上野を後にした。それにしても上野に来ると金鍔(きんつば)を食べたくなるのはどうしてか。いやこのさいはシベリヤでもいい。 帰宅して、美術書をまとめてある書棚をしばし眺める。と言うほどたいそうな書棚でもなければ蔵書でもない(本などほとんどないに等しい)。ほどなく見当がついた。きっかけさえあれば、記憶は意外なほど簡単に反復されるものだ。きっかけさえあれば。きっかけがあってもこうなることもありますが。 私は書棚から、岡倉天心の『日本美術史』(平凡社ライブラリー377、平凡社、2001/01、Amazon.co.jp)を抜き出した。
それはさておき。私はこの書物をライブラリー版が刊行されたときにはじめて読んだのだから、もう二年近く前に読んだ計算だ。二年前の私がはさんだ付箋やページの折目を辿ってみる。あったあった。「日本美術史」の徳川時代を論じた箇所に、探幽に言及した文章がある。
「この時代〔徳川時代――八雲註〕の美術家探幽のごときは、あたかも家康のごとき人なりしならんか。その法とするところはただ雪舟一本槍にして、もって狩野の家を保てり」(p.192)
「……美術上家法を定むること、これまた〔この時代の日本美術の――八雲註〕一種の特質なり。その最初は自然に任せしも、のちにいたりては、その弊害や重し。これ畢竟徳川氏の制度上より生ぜしものなり。美術もまたこれに関係せざるあたわず。探幽すでに徳川氏奥絵師となり、世襲の家柄となりては、その家法を守らざるべからず。これわが美術上において、非常なる出来事というべし。かくのごときは他国にもかつてその例を見ず。あるいは非常の名人などを輩出せしときは、与うるに禄をもってすることあるべきも、わが徳川時代におけるがごとく、その家柄を定めて禄を食ましむる等のことは、決して外国にはあらざるべし。狩野家の勢いたるや、美術を一定するの傾きあり。すなわち何々の線はかく画くべしと一定して変ずべからずとなす」(pp.193-194) 狩野探幽は京都の産で、十歳のときに東下して徳川の幕府御用絵師におさまった人物だ。上に引用した箇所で天心は権力の庇護のもとで美術が世襲の家柄によってある意味牛耳られたことを批判している。とはいえ上記に続く箇所で天心は、その同じ家柄制度のおかげで「明治の今日まで〔天心がこの講義を行ったのは明治23年から25年――八雲註〕雪舟、雪村の気を呼吸する人の存する」と功績を評価してもいる。総じてプラスかマイナスか? といわれれば、世襲という制度をどちらかというと莫迦気ていると考える私はマイナスだろうと無責任に思う。とはいえ、実際のところ江戸狩野家の権勢が日本美術史(というのもなんだかおさまりの悪い言葉だ)にもたらした功罪を見積もれるだけの材料も能力も持ち合わせていないのだから、無闇に断定などせずに天心先生の言葉を拝聴しておくにとどめる。 随分寄り道をしてしまったが、上野で「探幽縮図」を前にして思わず口をついた「勉強ぶり!」の出所がわかった。 「……江戸狩野の起りしは実にこの人による。かくのごとき大家にして長生なりしゆえに、多く画を作れり。その勉強はなはだしく、早朝より夜深更にいたるまで、手に筆を離さざりしと」(p.198) これだこれ。二年前の私はこのくだりがおかしかったらしく、「その勉強はなはだしく」のところに鉛筆で線を引いてある(しかしこの読み手、つまらないところばかりを選んで線を引く男だ)。つまりこういうことだ。上野で探幽の勉強ぶりとその成果を前にして、二年前に読んだ天心の感想が私の口から出た。なんのことはない、天心さんに繰られていたのである。 むしろ収穫の多かった「ウィーン美術史美術館名品展――ルネサンスからバロックへ」について語るつもりが降霊体験談になってしまった。「ウィーン美術史美術館名品展」についてはまたいつか。 ★東京都美術館‐東京都美術館のWEBサイト。狩野探幽展についての情報は少ない。 ★NIKKEI NET‐同展のスポンサーである日経新聞の美術展サイト
★千田善『なぜ戦争は終わらないか――ユーゴ問題で民族・紛争・国際政治を考える』(みすず書房、2002/11、Amazon.co.jp)
私は簡単に言えば(身も蓋も中身もないが)、戦争で儲かる奴がいるからだ、と考える。そう、ちょうどエミール・クストリッツァの映画『アンダーグラウンド』(Underground, 1995/監督=エミール・クストリッツァ/製作=カール・ボームガートナー/製作総指揮=ピエール・スペングラー/原案=デュシャン・コヴァチェヴィチ/脚本=デュシャン・コヴァチェヴィチ+エミール・クストリッツァ/音楽=ゴラン・ブレゴヴィチ/撮影=ヴィルコ・フィラチ/編集=ブランカ・ツェベラチ/衣裳=ネボイシャ・リパノヴィチ/美術=ミリェン・クリャコヴィチ)で、まだまだ戦争は終わらない、と地下に潜伏した人々を鼓舞し、武器をつくらせつづけ丸儲けを企んだマルコ(ミキ・マノイロヴィチ)のように。などと言えば、必要以上に込み入ってしまうか(笑)。 本書は、旧ユーゴスラビア現地での生活と取材に基づいて『ユーゴ紛争――多民族・モザイク国家の悲劇』(講談社現代新書、講談社、1993)、『ユーゴ紛争はなぜ長期化したか――悲劇を大きくさせた欧米諸国の責任』(勁草書房、1999)などの著作を発表してきたジャーナリスト・千田善氏の最新著だ。「若い人たち向けに、国際政治の話を、わかりやすく」という目的で書いたということもあり、前作以後の情勢の変化も視野におさめつつ、ユーゴ紛争をめぐる入り組んだ国際政治の動きを基本的なことから丁寧に手際よく解説している。 その千田氏は言う。
「〈自動的に戦争が起こるわけではない〉、ということは、〈戦争には起きる仕組みがある〉ということだ。戦争は、人間が起こすものである。人間といっても庶民ではなくて、政治家が起こすものでもある。だから、〈仕組み〉を理解することで戦争を防ぐことができる。防げなかった場合でも、戦争を起こした政治家を戦争犯罪人として処罰することで、つぎの戦争を防ぐことができる、そういうふうに筆者は考えている。 シンプルだけれど、ここからはじめるほかはない、そういう認識だと思う。「僕もパパみたいに戦争したい、したい、したいよう、絶対したいよう、石油もほしいよう、せっかく石油を使い放題のまんまでもいいように京都議定書だってけっとばしたんだから、戦争するったらするんだい」と駄々をこねつづけるジョージ・ブッシュにも読ませたい一節だ。と思っていると、後半は、ミロシェビッチの登場から凋落(逮捕・裁判)へ至る経過を追いながら、1999年のNATOによる空爆(中国大使館を含めた多数の誤爆が判明したあの悪名高い空爆)を軸に、NATOとアメリカ合衆国のユニラテラリズム批判に筆が及んでいる。当然の進みゆきであろう。 なぜ旧ユーゴスラビアで戦争が起こったのか、その結果どうなったのか。国連は、NATOは、アメリカはどう動いたのか。民族とはなにか。誰が何を得るのか/失うのか。わからないあなたには必読の書物である。 千田氏には、次の翻訳の仕事もある。 ★ジョルジュ・カステラン+アントニア・ベルナール『スロヴェニア』【翻訳】(文庫クセジュ827、白水社、2000/05) ★ジョルジュ・カステラン+ガブリエラ・ヴィダン『クロアチア』【共訳】(千田善+湧口清隆訳、文庫クセジュ828、白水社、2000/05) ★千田善のホームページ‐千田氏が主宰するWEBサイト。 ★Emir Kusturica and The NO SMOKING ORCHESTRA, UNZA UNZA TIME(Universal Music Publishing, 2000, 5438042)‐UNZA UNZA TIME はこのCDに収録されている。
★「ピュイフォルカ展」(東京都庭園美術館) 東京都庭園美術館(目黒)で、「ピュイフォルカ展」が開かれている。本展には、1820年にパリに創業した銀器工房を継いだ三代目ルイ=ヴィクトール・ピュイフォルカ(1867-1955)が蒐集した16世紀から19世紀にわたる歴史的フランス銀器(現在はルーヴル美術館に収蔵)、ルイ=ヴィクトール自身の作品、それと息子のジャン・ピュイフォルカの作品が出品されている。 銀器についてはさしたる縁も知識もない私が言うのだから是非とも眉に唾して読んでいただきたいのだが、本展の見所は、個々の作品はもちろんのこと、歴史的銀器のコレクションとその延長上にいるルイ=ヴィクトールの自然をモチーフにした優雅な作品から、飽くまでそうした伝統を踏まえた上で装飾を排し幾何学的なフォルムに向かったジャンのどこか未来的な感じのする作品へとつづく銀器デザインの持続と変貌ぶりを一望できる点にある。こうした銀器デザインの変遷には、作家の個性や好みもさることながら銀器が置かれる空間の変貌が映しこまれているのだろう。本展では、旧朝香宮邸(1933)のアールデコ調の空間を利用して、ピュイフォルカの書斎の再現、テーブルセッティングなど、環境を含めた展示の工夫がなされており銀器が用いられる場面を想像するよすがを提供している。この建築自体に対する好みもあろうかと思うが、旧朝香宮邸とピュイフォルカ銀器の組み合わせは、他の美術館に設置された場合にはこうはいかないのではないかと思わせる雰囲気を醸している(余談になるが1995年に同美術館で開催された「エリザベス二世女王陛下コレクション レオナルド・ダ・ヴィンチ人体解剖図展」も同様に、他では得られない効果を出していたように思う)。 本展を通じて社会・文化誌的な関心を刺激された身としては、「王侯貴族たちが使っていた銀器のコレクション」という次元にとどまらず、銀器をひとつの焦点として浮かび上がってくる生産、象徴、文化の多層的な諸関係を考えるヒントがもう少しあれば、と思ったのだがそれは美術展としての「ピュイフォルカ展」には求めるべくもないことであろうか。まあ自分で文献を漁ればよいのですが、なにせ根っからの怠け者なので(笑)。 展覧会場で流されていた、銀器工房でフォークやナイフが製造される過程を映したヴィデオ映像に思わず見とれてしまい、そのヴィデオ映像を何周も眺めてしまった。 「ピュイフォルカ展」は2002年12月01日まで ★東京都庭園美術館‐
★堤幸彦監督『トリック 劇場版』 人間の生活に戻るためのリハビリの一環として、映画館に行くことにした。観たい映画、観るべき映画は(東京で上映されているものだけを数えても)いつでも山ほどある。問題は時間の折り合いだけだ。そしてここ数ヶ月、その時間が文字通りなかった。ゼロであった。 せっかくまともな人間の生活に戻ったので、劇場へ行くまえに書店をひやかすことにした。神田の三省堂のドアをくぐる。好みは東京堂なのだが、東京堂は改装中で物足りない。書評新聞二紙をレジに出して店員の対応を待っていると、隣のレジに制服姿の女子高校生が小さな声で「はずかしー」といいながらやってきた。なにが恥ずかしいのか。彼女が店員に差し出したのは、阿部……ではなくて、上田次郎(日本科学技術大学教授)が笑顔で右手人差し指をつきだしている写真が表紙の『日本科学技術大学教授上田次郎のどんと来い、超常現象』(テレビライフ編集室編、学習研究社、2002/11)であった。なにを恥ずかしがることがあろうかそこな女子高生、とは言わなかったが、恥ずかしいけどほしいというディレンマに悩まされている様子がいかにも可愛らしい。店員が「カヴァーをおかけしますか?」と尋ねると、彼女は激しく首肯する。自分もあんな風に気恥ずかしがりながら本を購うことはあるかしら、と思いをめぐらせてみた。古本屋で古典的名著を購うときなどはいささか気恥ずかしくなることがある。というのも、その書物を差し出す私に対してなんだか店主が無言でこんな風に言っているように妄想してしまうからだ。「なんだ、キミはまだこんな本も読んでいないのか」と。 そこで私の用事は済んだのでレジ台を離れて上の階へ移動した。 (英語で読んだ読者には関係ないことだが)、ハートとネグりの『帝国』(酒井隆訳、以文社、刊行予定)の邦訳刊行を予告するポップの様子が前回見たときと違う。と思ったら、「11月下旬」とあったところに上から「12」と貼ってある。なおもあちこちの階をうろついて数冊の書物を入手して書店を後にした。 さて映画である。何を観よう。迷った。そのくせ(?)選んだのは、『トリック 劇場版』(監督=堤幸彦/制作総指揮=高井英幸+早河洋/制作=木村純一+風野健治/脚本=蒔田光治/音楽=辻陽/撮影=斑目重友//美術=稲垣尚夫/照明=池田ゆき子/録音=中村徳幸/編集=伊藤伸行/助監督=木村ひさし/製作担当=朝比奈真一)だった。書店での出来事がきっかけになっていないといえばウソになるが、本当は恵比寿ガーデンシネマにかかっている『ゴスフォードパーク』(GOSFORD PARK、2001/監督=ロバート・アルトマン)を観ようと考えていた。のだが、劇場へ参じてみたらすでに最終回以外は席が埋まっていたのだった。 その『トリック 劇場版』である。私はTVドラマを観ていると、多くの場合、あのつくりものめいた感じ(声の調子、表情、身振り)にムズムズしてしまってなかなか見つづけられない。その点『トリック』は大丈夫だ。なぜか? そこを逆手にとるというか、開き直っているからだ。知識はあるが知恵のない天才物理学者・上田教授(阿部寛)にせよ、意地っ張りの売れない手品師・山田奈緒子(仲間由紀恵)にせよ、とことん作り物めいている。阿部寛など、つとめてインチキ臭さを出そうとしているのではないかと思われるほど表情をつくり、発声をコントロールしている。その割り切った演出はすがすがしくさえある。ここにはつとめて自然に演出しようとする意向と、どこか不自然な演技とがぶつかる居心地の悪さがない。 ストーリーは例によって(?)、横溝正史のパロディー(といえば両方のファンからしかられるか)のような構成で、ひなびた村で起こる血縁と信仰と殺人の入り組んだ出来事に山田と上田が巻き込まれてゆく。駄洒落、下ネタ、ギャグの細かい笑いを丁寧にはさみながら(しかしお約束どおり〔?〕打率は五割程度)、山田の手品師対決(というと語弊があるか)、危機と脱出、謎かけと解決、山田と上田のすれ違いが提示されて飽きないつくりになっている。チープでキッチュな深夜番組を劇場のスクリーンで観ているような按配ではあるが(というよりそのような構成が意図されているわけだが)、イタい映画のように「これ、劇場で観なくてもテレビ東京のお昼で流してもらえばよいのでは」というところまではいかない。このぎりぎりな感じがよいのである。もちろん、竹中直人、ベンガル、石橋蓮司、伊武雅刀、野際洋子、といった安心して観ていられる芸人たちが脇を固めているのも大きい。 などと御託を並べてみたが(きっとあなたにとってもそうであるように)そんなことはどうでもよい。不本意ながら来る日も来る日も一本のゲームばかりに向き合って、かたくこわばってしまった精神が、他愛もない笑いによってほぐれる。不満はたくさんあった。けれども作品の出来映えを判定などしなくても、私にはその効果だけで十分だったのである。「おもしろかった」と書けば7文字で済むところを、つい敷衍してみたくなってしまう。それもまた作品の力(もちろん、その作品が八雲に対して持ち得た力)ではないだろうか。などとすぐ御託を並べるのがよくないと自分でも思う。 『キネマ旬報』(No.1368、2002年11月下旬号)で特集が組まれている。 ★トリック 劇場版‐公式サイト ★キネマ旬報社‐キネマ旬報社のWEBサイト
★アンリ・フォシヨン『フォルムの素描家 レンブラント』(原章二訳、彩流社、2002/11、Amazon.co.jp)
「なにものも拒まず、人間と生命が展開する光景に深くこころを動かされ、いたるところに愛情あふれる線を見出す観察力、それがレンブラントの偉大さの真の源泉なのだ。(中略)おそらく、その源泉に対して用いられるべき最良の言葉は『友愛』であろう」 『夜警』、『病者を癒し幼児を祝福するキリスト(百フルデン版画)』、『布地組合の見本鑑査官たち』、『魔法の円盤を眺める書斎のファウスト』、『デュルプ博士の解剖学講義』、そして多数の自画像とシナゴーグのスケッチ……。レンブラントといえば人が思い出すようなこれらの作品にレンブラントの対象への「友愛」は見出せるだろうか。私にはにわかに答える用意はない。フォシヨンの伴奏を手がかりに最後に観たときとは異なる態度でレンブラントに臨むばかりだ。 ただ、このように言うフォシヨンの言葉自体が、レンブラントへの友愛に満ちていることは確かだ。芸術に触れて、芸術とのあいだにわきあがる友愛。出会いの出来事の幸福な一例がここにはある(別の項目で言及するつもりだけれど、エリー・フォールの古典古代ギリシア美術に対する関係もまた、友愛であるように思う)。 フォシヨンは、レンブラントのエッチングを高く評価して言う。
「……レンブラントは銅版に柔らかく、かつ力強い影を求め、移りゆく半陰影の微妙な音色を追求した。実にそこに、レンブラント芸術の本質が見つかる、と私は思う。 「すべての偉大な画家」が「銅版という道を通じて宇宙のイメージを把握し決定する」とは、どう贔屓目に見ても言いすぎだろう。ただ、そう言いたくなるほどレンブラントのエッチングには、空間を織りなす光と空気とが精妙に現出していることは誰もが感得するところだ。そう言うのではすまない過剰さがフォシヨンの文章にはある。ここには、それが事実かどうかなどということとは無縁の、ひとつの〈悦び〉が表現されているように思われてならない。 レンブラントの絵画、フォシヨンの言語、その二つに対するあなたの眼差し――この三つがいかなる効果を生じさせるのか? 調和するのか闘争をくりひろげるのか鋭い不協和音を形成しながら緊張感あるスリリングな響きをつくりだすのか。どのような音色が奏でられるのかは、もちろん人により時によるのだろうけれど、この出会いからただちにレンブラントの作品そのものに向かい合いたくなる力を与えられることでは違いがないだろう。 本書には、モノクロ印刷で60点ほどの作品が掲載されている。が、もちろんこれらの複製は渇望感を増強しこそすれ、鎮めることはない。単に予算や技術上の理由によってこのような体裁になったのだと推察するが、下手にカラーで印刷されているよりいっそ潔いと思った次第。というのも最近「ウィンスロップ・コレクション展」(国立西洋美術館、2002/12/08まで)のカタログでホイッスラーの作品のあまりの再現率の悪さに愕然とした――カタログに期待などするからいけないのだといえばそうなのだが――ことがあって。それはそうと、どうしよう? どうやってレンブラントを観よう? あれ、そういえば京都国立博物館で「大レンブラント展」が開催されていなかったっけ? そうだ、京都へ行こう。 ★Rembrandt Rembrandt‐「アート・エキシビジョンのWEBサイトのレンブラントに関するコンテンツ 日本語に移植されているフォシヨンの仕事は以下のとおり。 ★『形の生命』(杉本秀太郎訳、岩波書店、1969) ★『ロマネスクの彫刻』(中央公論社) ★『西欧の芸術1――ロマネスク』(神沢栄三訳、SD選書、鹿島出版会) ★『西欧の芸術2――ゴシック』(神沢栄三訳、SD選書、鹿島出版会) ★『至福千年』(神沢栄三訳、みすず書房、1992) ★『ピエロ・デッラ・フランチェスカ』(原章二訳、白水社、1997) ★『ラファエロ――幸福の絵画』(原章二訳、平凡社ライブラリー、平凡社、2001)
追伸:この雑文を記しながら、しばらく前に観たシャルル・マトンの監督作品『レンブラントへの贈り物』(Rembrandt, 1999/制作総指揮=アニャ・グラフェール/制作=アンベール・バルサン/脚本=シルヴィ・マトン/撮影=ピエール・デュプエ/美術=フィリップ・シフレ/音楽=ニコラ・マトン/フランス+ドイツ+オランダ合作/DVD番号=OPSD-S039/DVDのタイトルは『レンブラント』)を思い出した。といっても自分は本当にこの映画を観たのか? と頼りなくなるほどなにも印象に残っていない。観たという事実ばかりを覚えている。ただひとつだけ思い出せるのは、破産したレンブラントの家から調度が撤収されて閑散とした家の中に窓から差込む光がみちあふれるショットだけだ(それさえも本当に映画中のショットなのかどうか怪しいのだが)。どうしてこんな不面目なことになったのかは、言わぬが花か。
仕事の都合で今年の初夏から私的な時間のない生活を強いられてきたが、今週になってようやくその仕事(ゲーム制作)が終了した。 業界外の知人と話していると、ときおり「ゲームで遊ぶのが仕事だなんてうらやましい」といったコメントをいただくことがある。が、いくら好きでも自分が作ったゲームを朝から晩まで何ヶ月もプレイするのはやりきれないものだ。ゲームをプレイする、といっても遊ぶわけではない。本の校正者が原稿の間違いを探すように、ありうるバグを探し出し、潰すために考えられる限りの操作を試すのだから。自分で自分の間違いを探し、修正し、間違いが直ったかどうかを確認する。何を作るの似たようなものかもしれないが(貧しい経験から言うと翻訳の作業も似たようなものだ)。 ゲーム制作の仕事が過酷になると、私は1999年の「第7回フランス映画祭横浜'99」で吉田浩とともに観たエミリ・ドゥルーズの監督作品『新しい肌』(Peau Neuve, 1999/製作=アニエスb.+カロル・スコッタ/脚本=エミリ・ドゥルーズ+ロラン・ギヨ+ギイ・ロラン/撮影=アントワーヌ・エベルレ/美術=ジミー・ヴァンスティーンキスト+ムンジ・ガセ・クチュール)を思い出す。パリでゲームのテスター(とはつまり開発者たちがつくったゲームを検品する仕事のこと)を生業にするアラン(サミュエル・ル・ビアン)が、妻に相談せずに仕事を辞め、呆れられながら職業訓練学校でブルドーザーの運転を学ぶ。明滅するスクリーン上の非現実世界の操作に始終するゲーム・テスターから、圧倒的な物質の塊として存在する巨大なブルドーザーを操作する運転手へ、という転身の対称性については、当時は個人的にいささかつくりものめいた感じを受けて不満を覚えたことを記憶している。けれども別の観方をすれば――というよりむしろ作家ははじめからそちらを示唆していたのだろうし素直に考えれば当たり前のことなのだが――この転身によって、アランは他人が作ったゲームを非生産者として検品する立場から、自分が何かを生み出しうる技術を身につけた人間へと変化(脱皮 faire peau neuve)したのだ。 そう考えると、本当は「ゲーム制作が追いこみになってつらくなると『新しい肌』を思いだし、『アランの心境がわかるよ、私も新しい肌がほしいなぁ』と言いたくなる」――と言うつもりでいたのだが、曲がりなりにも生産者の立場にある身としてはこの言い分が不当であることに気づかざるを得ない。 と言ってももちろん、矢鱈と生産すればいいというものではない。むしろ生産しない方がよいゴミのようなものだって沢山あるのだから、一方的に生産に価値を置いたような上記の寸評もおおいに怪しまねばなるまい。 『新しい肌』は、これといって完結する筋があるわけでもないのだが(だからこそ?)、観てから3年を経たいまでも強く印象に焼き付いている。しかし、どういうわけか私の脳裏にうかぶ映像にあらわれるアランは、サミュエル・ル・ビアンというよりはブルーノ・ガンツであったり、エミリの父であるジル・ドゥルーズであったりするのだ。このすり替えがいつ起こったのかわからない。いや、『新しい肌』を観ている間にも、楽しげにブルドーザーを運転するアランはブルーノ・ガンツに見えていたし、高台から地表までの距離をたしかめるようにカメラが下を除きこむ場面でのアランがジル・ドゥルーズに見えていたこともはっきりと覚えている。 加えて2001年に劇場で観たクリストフ・ガンズの監督作品『ジェヴォーダンの獣』(Le pacte des loups, 2001/製作=サミュエル・ハディダ+リシャール・グランピエール/撮影=ダン・ローストセン/編集=デヴィッド・ウー)で、主人公グレゴワ−ル・デ・フロンサックことサミュエル・ル・ビアンを観ても、にわかにはアランであると気づかなかったのだから重症である。余談になるが、この映画、設定やキャラクターの立て方はよいのだが、デヴィッド・ウーの例のストップモーション編集の過剰さとキャラクターを活かし切らない半端さが否めないストーリー展開がかみあわず、全体としては残念なつくりであった。ハワイ出身でマーシャルアーツの達人であるマーク・ダカスコスのアクションが救いであろうか。そういえば今年のはじめに観たピトフ監督の『ヴィドック』(Vidocq, 2000/脚本=ピトフ+ジャン=クリストフ・グランジェ)もまた、設定(といっても原作があるわけだが)とゴシック・ミステリーの雰囲気の味わいが十分に活かされず(単に2時間という映画の枠に不満なだけか?)、50を越えたジェラール・ドパルデューの巨体が画面狭しと繰り広げるアクションは楽しんだものの、作品全体としては個人的に残念な作品であった。
脱線に脱線を重ねたが、冒頭にも述べたようにほとんど無意味に過剰な労働から解放されて、私にもそれこそ脱皮に近い生活環境の変化が訪れた。映画はおろか本もろくに読めない生活(哲学の劇場の更新はなおのこと!)とはしばし別れをつげて、自らの愉しみのための仕事をしたいものだ。なンていう雑感を書きつけつつ、先週読んだジャン=ミシェル・フロドンの『映画と国民国家』(野崎歓訳、岩波書店、2002/10)やエリー・フォール『美術史1――古代美術』(篠塚千恵子訳、国書刊行会、2002/10)の寸評を記すつもりで筆をとったはずが連想に継ぐ連想で思いがけない場所へ運ばれて行ってしまった。これらの書物については別の日付で。
★新海誠『ほしのこえ The voices of distant star』(コミックス・ウェーブ、2002/04; アニメージュ ライブラリー VOL.1、徳間書店、2002/09、Amazon.co.jp)
時は2047年。登場人物の長峰美加子と寺尾昇は同じ中学に通う仲のよい同級生。その年、美加子が国連宇宙軍の選抜メンバーに選ばれる。人類は、2039年の出来事、つまり火星探査隊が異生命体(タルシアン)の攻撃を受け壊滅した事件に対して、タルシアン調査を目的とした国連宇宙軍の調査団を組織し送り出す。美加子はその調査団のメンバー(探査マシン=トレーサーの操縦者)に選ばれたのだった。美加子が乗る宇宙戦艦は、次第に地球を離れて行く。携帯メールで連絡をとりあう二人の距離もまた離れ、メールが届くまでの時間が、一ヶ月から一年、一年から十年になる……。「私たちは、たぶん、宇宙と地上にひきさかれる恋人の、最初の世代だ」――物語はなにより作中のこの台詞につきており、作品の25分は宇宙的規模で引き裂かれる二人の恋心のせつなさを静かに描くことにのみ費やされている。 馬鹿の一つ覚えのようで恐縮だが、やはり一人でこれだけのアニメーション作品を創りあげたことは驚嘆に値する。もちろん、作品を受容する上では作者が何人だろうが関係はない。たとえばあるアニメやゲームが30人で作られていようが、100人で作られていようが、それを気にする受容者はほとんどいないだろう。 しかし、集団でモノ創りをする生業(私の場合はゲームだが)に就く者としては、この作品が一人の人間によって創られた事実は驚異である。驚異であると同時に魅力的だ。それは同DVDに収録されたインタヴューの中で作家本人も述べていることだが、一人で創るなら作家の個人的な創意を十全に発揮することができる。たとえば、この作品に登場するミカコは、なぜか学校の制服のままトレーサーに搭乗している。そしてそのことについて作品中では特に理由は述べられていない。一部の受容者をのぞけば、学校の制服でメカを操縦するミカコを観て、「おや?」と思うだろう。国連軍の制服やパイロット・スーツを着ないのかな? とか。集団で創る場合、このことひとつをとっても十分議論の種になりうる。「学校の制服で国連軍のパイロットをやっているのはおかしい」「そういう絵がほしいだけなんだし、実際いい絵なんだから理屈なんていらない」「宇宙服を着せるべきだ」云々かんぬん。一事が万事そうだといってもよい。 もちろん個人制作と集団制作のどちらがよいか、という問題ではない。一人で創れば、趣味は出せるが集団の吟味を経ない分、不特定多数の受容者に理解・支持されうるだけのものに仕上げるのはすべて自分の力量にかかってくる。そのかわり、集団の吟味を経てともすると丸くなってしまうエッジを保持したまま作品することができる可能性がある。すみずみまで自分が満足ゆくように手をいれられる、ということは別の言い方をすれば、すべて自分でやらねばならないということでもある。ともあれ。それなりの技術と創意と経験と根気とを持ち合わせていれば、アニメーションという表現形式も個人が選び得る選択肢のひとつであることを、新海氏は明示してくれた。誠に勝手なことではあるが、新海氏のような作家がどんどん出てくるとよいと思う(私が知らないだけだろうけれど)。そして一人、あるいは小人数でしか創れないもの(単に資本の増大を目的とした企業に従属する創作から少しだけ自由になった創造)をどんどん見せてほしいと思う。 ★Other voices-遠い声-‐新海誠氏のWEBサイト
横浜美術館で開催中の「ヴィフレド・ラム展――変化するイメージ」を観た。1902年、中国系移民の父とアフリカ系キューバ人の母の間に生まれたラムは、ハバナの美術学校で学んだ後、スペインに渡り、パリ、ニューヨーク、キューバを往来しながら、三度の結婚をし、1982年パリで客死した。 今回の展覧会では絵画に加えて後年のモチーフをそのまま立体にしたような陶器やブロンズの作品を含む100点を越える作品を、年代順に配置している。写実的な初期の作品から渡欧してピカソらとの交友がはじまった1940年前後のアフリカ彫刻を連想させる作品、後年への助走であるかのようなブルトンの『ファタ・モルガナ』(Fata Morgana)のための一連の素描を経て、動物と人、男と女、無機物と有機物とがつながりあい融合し、増殖、生成変化するかのような――人がラムといえば想起する――モチーフが全面的に開花する晩年に至る作品群。 あの『ジャングル』(La Jungle, 1943; 画像はたとえばここ)こそ来日していないものの、ラムの変貌ぶりを時を追いながら感得できる展示の構成はうれしい限りだ。作品によってはガラスケース越しではなく、照明の映り込みに邪魔されることなくカンヴァスを直に観ることができるのもよい。順路を何度も往復しつつ『ヘルメス・トリスメギストス』(Hermès Trismègiste, 1945)や『アダムとイヴ』(Adam et Eve, 1969)といった作品の前でしばし脚をとめ、直前に観た作品と重ねあわせるように心行くまで眺めつつ圧倒されることができるのもひとえに人気のないおかげだ(前回観に行った「チャルトリスキ・コレクション」とはうってかわり、桜木町駅とランドマークタワーの混雑が嘘のような静けさであった。むろん開催者側としては遺憾なことだろうと思うが)。 触手や爪、あるいは神経節、なんらかの器官のような複数の個体を思わせる――のは随所に描きこまれた眼である――身体が、互いに刺し貫き、つながりあい、画面中でからみあう作品を観ていたら、これはひょっとしたら生殖と出産と死滅の果てしない連鎖を描いた絵画なのではないか、と腑に落ちた。だとすれば――とはもはやラムの創作意図とは無縁かつなんの裏付けもないまったく勝手な私の解釈にすぎないのだが――これらの作品は、人と動物とそれらが関係しあう世界そのものが産み/産まれ、食し/食される永遠の連鎖であることを一枚の平面におさめきったものなのではないか。そこには当然のことながら時間が畳み込まれている。平面の上を、身体から身体へ臍の緒をたどるようにたどる視線がそのつど時間を生成する。そんな装置の数々を、ラムは創り出し、差し出したのではないか? ラムの作品に触発されて、そんな妄想に襲われた。 「ヴィフレド・ラム展――変化するイメージ」は、2003年01月13日まで。 ★横浜美術館‐同美術のサイト。残念ながらラム展に関する情報は少ない。 ★ギャルリー宮脇‐左はギャルリー宮脇のサイト内にあるラム・コーナーへのリンク。 ★アート遊‐左はアート遊のサイト内にあるシュルレアリスム作家コーナー下のラム作品へのリンク。
★ジル・ドゥルーズ『批評と臨床』(鈴木雅大+谷口昌親+守中高明訳、河出書房新社、2002/10、Amazon.co.jp)
ドゥルーズの作品がつねにそうであったように、本書もまた闘争の書物である。ルイス・ウルフソン、ルイス・キャロル、ベケット、ニーチェ、ロレンス、マゾッホ、ホイットマン、メルヴィル、アルフレッド・ジャリ、カフカ、T.E.ロレンス、アルトー、スピノザ……。ドゥルーズは作家たちを召喚し、共闘する。優れた音楽家が手垢にまみれた古典作品に新たな生を与えるように、ドゥルーズは作家たちの作品読解を通じてテクストの潜在性を顕在化させる。闘争の相手は、わたしたちの生と思考を取り囲む反動的な諸力だ。わたしたち自身の中にもある否定的な力についてドゥルーズはこのように言う。 「ところがこの私たちは、この私たちはたかだか関係の『論理』(ロジック)のなかで生きているにすぎない(中略)。生身の関係におけるこの離接を私たちは〔論理的・抽象的な〕たんなる『あれかこれか』にしてしまう。連結は、私たちはそれを原因から結果への、あるいは原理〔始点〕から帰結〔終点〕への関係に変えてしまう。この生きて流れている、流れが結び合う世界を私たちは抽象して、主語〔主体〕、目的語〔対象〕、述語、論理的諸関係からなる、生気を欠いた複製の世界をつくりあげた。私たちはそうやって審判〔判断〕のシステムを抽出してきたのだった。問題は社会と自然、人工的と自然的とを対立させることにあるのではない。人為かどうかなど大したことではない。自然の生身の関わり合いがただの論理的関係に翻訳され、象徴がただのイメージに、流れがただの線分に翻訳されるそのたびに、また生きたやりとりがただの『主‐客』の関係に切り抜かれるそのたびに、世界は死ぬのだと、私たちは言わなければならないだろう。そしてそのたびに衆の心、集団の心もまた、民衆の自我のうちにせよ、専制君主の自我のうちにせよ、一個の〈自我〉のうちに閉じ込められてしまうのであると」(第6章「ニーチェと聖パウロ、ロレンスとパトモスのヨハネ」) そう、いまもってまったく他人事ではない事態についてドゥルーズは述べているのだ。メディア、資本、国家、コミュニティ……いたるところに審判〔判断〕のシステム(Le systéme du jugement)があり、幅を利かせている。そのようなとき、わたしたちに何ができるのか?
「おのれを一つの自我として考えることをやめ、おのれを一つの流れとして生きること。おのれの外をまた内を流れる他のさまざまな流れと関わりあいながら流れている一つの流れとして、流れの集まりとして生きること」(第6章「ニーチェと聖パウロ、ロレンスとパトモスのヨハネ」)
「裁きは、あらゆる新たなる存在様態が到来するのを妨げてしまう。(中略)裁くのではなく、存在させること。(中略)われわれは、他の存在者たちを裁く必要はない。そうではなく、それらがわれわれにふさわしいかふさわしくないか、つまり、それらがわれわれに力をもたらしてくれるか、それともわれわれを戦争の悲惨や夢の貧しさや組織化の厳格さに差し向けてしまうかを、感じ取ることこそが必要なのだ」(第15章「裁きと訣別するために」) まったく生半可なことではない。しかし、だからこそドゥルーズは、言語によって当の言語を吃らせ、耐えず撹乱し、ともすれば習慣的に作用する「あれかこれか」の論理を破壊する稀有な作家たちを褒め称え、さらにその潜在性を十全に顕在化させる仕事を生涯つづけたのであるし、自らもそうした作家として書くこと(闘争すること)を実践したのであろう。 ドゥルーズの歿後も、その仕事が読み手をおおいに触発しつづけて止まないことは、幸というべきか不幸というべきかわからない。いつかドゥルーズが闘争した状況が消えてなくなるなら、そのときはドゥルーズを読むのをやめればよい。とはいえ、偉大な作家たちの作品に触れると、まるで彼/彼女らが人間の度し難い本性とその普遍/不変性を、先の先まで予見しているかのように感じられるのと同様に、ドゥルーズはこれからも常にアクチュアルでありつづけるのではないか、などと憂鬱な予感にとらわれるのも事実である。というのも、繰り返しになるが、ドゥルーズの作品から刺激を受けるということはとりもなおさず、世界にあいかわらず愚劣がはびこっているということに他ならないのだから。 最後に翻訳について。邦訳書中、「エイゼンシュテイン」と記すべきところを二度にわたって「アインシュタイン」と記している箇所があった。文脈からそれが「アインシュタイン」ではなく「エイゼンシュテイン」であることは明かであるから(実際原書p.35、p.37では"Eisenstein"と書かれている)、害は少ないだろう。「絵巻物の中に映画的モンタージュの真の先駆形態を見て取」るアインシュタイン、「ディケンズの後をうけて(中略)――湯沸しが私を見つめている……」と言うアインシュタイン、というハプニング的な組み合わせから少なからぬ刺激を受けた身としては、この se の欠落にそれほど文句をつけたいわけではない。とはいえ、誉められたミスでないことにかわりはない。 訳者の一人、谷昌親氏の近著『詩人とボクサー――アルチュール・クラヴァン伝』(青土社、2002/10)は、日本語で読める文献としてはおそらく初のクラヴァン伝。うれしい仕事だ。近くここで取り上げてみたい。 また、ことのついでに、訳者の一人である守中高明氏のプロフィールを作成してみた。
★佐々木能章『ライプニッツ術――モナドは世界を編集する』(工作舎、2002/10、Amazon.co.jp)
しかし、である。いざライプニッツに取り組もうとするわたしたちは、怪物マシーン・ライプニッツが走り回った領域のあまりの広大さに呆然とする。ライプニッツとは、ブルバキのような集団に冠せられた名前だったのではないかと疑いたくなるほどだ。ライプニッツの仕事の全域(1923年から刊行が続いているアカデミー版全集はいまだ完結していない)を踏査するためには、もう一人のライプニッツが必要である。もちろん、ライプニッツの全仕事がそのまま現代のわたしたちの思索と実践に資するわけではない。とはいえ、その財産目録を検討してみないことには、いたるところでリンクしあい響きあうライプニッツの仕事を十全に活用することも覚束ないのではないだろうか。 そんな風に途方に暮れる私たちのもとに福音が届いた。『ライプニッツ著作集』の共訳者の一人でもある佐々木能章氏の『ライプニッツ術――モナドは世界を編集する』(工作舎、2002/10)である。 本書は通常の意味での哲学書ではない。ライプニッツがいかにしてあれだけの仕事を手がけることができたのか? その思考と仕事のスタイルと実践の術に迫ろうという書物である。つまり、怪物マシーンが走破した全領域をフォロウするというよりは、怪物マシーンにそれだけの走行を許したエンジンがどのようなものであったかを検分する書物といったらよいだろうか。奥出直人氏の書物のタイトルを借りるならライプニッツの「思考のエンジン」のスペックと性能を解明しよう、というアプローチである。これが滅法おもしろい。
「差異や変化が無いと考えるのではない。無限に小さいと考えるのである。つまりはあるのだ。存在と無とでは折り合いがつかない。しかし存在同士でなら調整は可能となる。『一見相対立する』ものとは、差異や変化があるか無いかによって区別をしていた。しかし実は両方とも差異や変化がある、とすることによって同じ土俵で扱うことが可能となる。もちろん何度も言うように、ここでは『無限』が決定的に重要な役割を果たしている。この時期に発見された『無限小』という数学上の概念なくしては、無限に小さい差異や変化という発想はあり得なかった。ライプニッツはこの概念を背景に、自然の現象を統一的に把握する可能性を追求しようとしていた」(p.56)
「現象の多様さこそが説明されるべきことであり、多様さが減ってしまうような説明は望むところではない。ライプニッツはデカルト哲学の中にその気配を感じ取った。デカルトの衝突の法則を吟味することによって、ライプニッツは何よりも多様さを捉えるという課題を第一においたのである」(p.60)
「大事なのは、違いをなくすことではなく、どこで違いが出てくるかを見きわめること、そしてこれがもっと大事なのだが、違いがはっきりと出せないならば、多様性を認める方向で考える、あるいは存在が豊かになる方向で考えるということである。」(p.60) ライプニッツが無限の概念を媒介にして、同一性を差異の、静止を運動の一種であると考えるのは、現象の多様なあらわれを理論の箍にはめて殺すためではなく、現象の多様さを多様なままに捉えるためであった。かといって、ライプニッツは多様性をそのまま記述するだけでは満足しない。もし多様性を記録するだけなら、ライプニッツは博物学とでもいうべき仕事に専念すればよかったはずだ。むしろ、多様性を能う限り殺さずにしかしそれを有限の概念の組み合わせで把握すること――もちろん佐々木氏はこんな風に乱暴な単純化をしていないが、佐々木氏の筆を通して見えてくるライプニッツ術を一言でいうならそういうことではないだろうか(取り扱う範囲が狭いとはいえ、私はここでS.ウルフラムが近著A New Kind of Science(Wolfram Media Inc, 2002/05)で展開した複雑性に対するアプローチを想起する)。 こう考えればライプニッツが横断した領域が、哲学、数学、言語学、法学、物理学、生物学、地質学、歴史学、神学、技術論、政策、図書館学、中国研究――と多岐にわたるのももっともなことである。人は、自然や人間あるいはその社会に生起する諸現象を、いくつかの異なる方法と観点から考察してきた。個々の学問分野とは、その方法と観点に与えられた名前だ。ライプニッツの関心が万学にわたるのは、個々の学問の枠組みに関心があることもさることながら、むしろ諸学がもたらす種々の異なる観点から、自然や人間、社会をその潜在性を含めて十全に把握するためであろう。仮に存在と存在者に対するライプニッツの多様で複眼的なアプローチを水平方向の思考術と呼ぶとすれば、他方でライプニッツには個体と世界(宇宙)を往還する垂直方向の思考術がある。 「ライプニッツの哲学は、個体と世界とのあいだを常に行き来している。ライプニッツの用語で言うならば、モナドと予定調和とがその両端を支えるものとなっている。どちらもそれだけだと説明としては成り立たず、互いに補い合うことによって初めて全体像が姿を現すものである。そしてこの両者はいつも緊張感をもって対峙しつつ支えあっている。ライプニッツの哲学を解きほぐすことの難しさは、この緊張関係をどこから描き出すかということにある。これが厄介なのはモナドも世界もそれぞれが積極的な意味での無限を含意しているからである。そしてモナドを考えると世界まで広がり、世界を考えるとモナドに出会うことになる。」(p.172) なんという精神であろうか。私はライプニッツの仕事に驚くばかりではなく、このような精神さえも存在させえたこの世界に驚かずにはいられない。ライプニッツを存在させた世界と、その世界を把握せんとするライプニッツ……。
あまりの面白さに本書を一気に読み終えた私は、余勢を駆ってライプニッツ術をライプニッツに適用してみるべく書棚から著作集を抜き出したのであったが。
★ウィンスロップ・コレクション ★ピカソ 天才の誕生――バルセロナ・ピカソ美術館展 ★ロバート・メイプルソープ展 ★ダムタイプ:ヴォヤージュ といった展覧についてコメントを書こうと思ったけれどまた今度。
新宿紀伊国屋書店で本を見て歩いているときのこと。先頃『週刊読書人』での連載が完結した蓮實重彦氏へのインタヴューがまとめられた『「知」的放蕩論序説』(河出書房新社、2002/10)に遭遇。紙上での連載に目を通していたので、追記増補はあるかしらんと同書を手にとり検分することしばし。ページをぱらぱらめくりながら、前半はインタヴュアーらの蓮實氏に対する敬語の言いまわしだけでページの半分以上が埋まってるんじゃないかと錯覚しそうな勢いだったなあこれ、敬語をカットしたら何十ページか本が薄くなるんじゃなかろうか、などと連載記事を読んだときに心に浮かんだよしなしごとを反芻しつつあとがき以外はとくにそのままらしいことを見て本を棚に戻した。その附近の他の書物を眺めておこうと右手を見るとどこかで見たような人物がこれまた本を検分している最中。よく見ればその紳士、蓮實重彦氏であった。面識のない著者とその書物が同時に目の前にある不思議(でもなんでもないのだが)に軽い眩暈を覚えて書店を後にした私。はからずも1998年の同じころ同じ書棚の前で東浩紀氏がやはり出版したばかりの『存在論的、郵便的』(新潮社、1998/10)を手にしたり棚に戻したりしているところに遭遇したことを思いだし、存外つまらないことをよく覚えているものだと呆れたりして。
★ダニエル・アラス『なにも見ていない――名画をめぐる六つの冒険』(宮下志朗訳、白水社、2002/10、Amazon.co.jp)
対話では意見の異なる二人の人物が一幅の絵画を見ながら議論を戦わせる。講演では、話者はたえず目の前の聴衆へ配慮(聴衆が持つであろう疑問への応答)しながら話を進める。書簡では、筆者が宛先となる人物が言いそうなことを想定しつつ議論を組みたてるのだが、もちろんこの場合は限りなく一人称に近いわけで他者に開かれているのかといわれればそうではないと言うこともできるが、結局のところ書かれた手紙は宛先に送り届けられ送る者と送られる者との間にズレを生じさせ、議論を誘発するのだしむしろこのような場合に書かれる手紙とはそのようなズレを確認することを一つの目的としてあらかじめ特定の他者との齟齬を念頭において書かれるものであろう。三人称の記述は、主人公となる人物の作品解釈を客観化するというよりはむしろ、主人公の思考の進め方を相対化する働きをもっている。などなど。 「そんなことを言ったって、絵画の解釈はそもそも第三者に開かれているではないか! 絵画がつねに鑑賞者に開かれているのと同じように!」と考えるあなたは美術史/家の恐ろしさを知らないのである。私も知らないが。 どうやらアラスが本書の内容はもちろんのこと形式を使って批判しているのは、美術作品の解釈を牛耳る美術史学もしくはそこに住まい作品解釈の堅牢さと確実さの守り手である美術史家――とりわけ標的になっているのは図像学――であるようだ。 実際、個々の作品読解のおもしろさとは別に、本書にはいわゆる「美術史」や「美術史家」に対する批判が随所に表明されている。絵画の具体的な読解についてはあなたの楽しみのために脇において、ここではそうした美術史への批判が提示される部分を本書のさまざまな部分から引いてみよう。
「ぼくが気にしているのは、きみが往々にして、きみ自身と作品とのあいだに、文献や、引用や、作品外部への参照事項など、スクリーンを強引に置きたがることなんだ。作品の燦然たる輝きからきみを守り、ぼくたちが属している美術史学という共同体の存在理由や認識票になっている、獲得済みの習慣を守り通すための、いってみればサングラスみたいなフィルターをね」
「いやいや、きみがこうした解釈に同意しないことは、最初から分かりきっている。このことを証拠立てるテクストも古文書も持ち合わせていないわけだから、美術史的には厳密な議論とはいえない。でもぼくなんかは、この美術史的厳密さなるものが、だんだんと例の『ポリティカル・コレクトネス』に似てきたのではないかという危惧を抱いている。だから、ぼくたちの正しい思考をじゃまして、『コレクトでない』絵画など一度も存在したためしがないと信じさせたがる、美術史学を自称する、あの支配的な思想と戦わなければならないと思っているんだ。その思想とは、そうでもしないと、ちんぷんかんぷんになって、確信を失いかねない、あの古典的な図象学(イコノグラフィー)という原則のことなんだ。」
「まったくもって、図像学なるものは、美術史学における消防隊ですよね。過熱したゲームをしずめるために、これこれしかじかの異常事態によって、ぼっと燃え上がりそうな火を消すために、やってきてくれるのですから。さもないと、そうした異常事態のせいで、あなたたち図像学者は、作品を子細に検討することを迫られますし、そのあげくに、すべてはあなたたちが望んでいるほど単純でもなければ、明快でもないことを、はっきり認めなさいといわれかねないわけですからね」
「――もちろん、そんなことはない。ぼくは、そのタブローを『眺めて』みたいだけです。図像学は忘れていい。タブローがいかに機能しているのかを確かめたいのです。
「でも時と場合によっては、つまり、この《ウルビーノのヴィーナス》がいい例なのだけど、形態的な要素を、あらゆる分析に先立って、ただちに特定の物体と同定し、すぐさま命名してしまうことで、画家の仕事が了解可能なものとなり、タブローの脇をかすめて通ることになってしまうのです」 割合としては少ないのだが、美術史家も甘んじて批判を受けるばかりではない。こんな反論も見られる。 「――きみにいわせてもらいたい。この手の、当節流行のこねくりまわした珍説に、ぼくは虫酸が走るんだとね。タブローから、是が非でも仲立ちを見つけなくてはいけないご時世なんだから。まるでタブローがわれわれを必要としているかのようにね。きみや、そのお仲間ときたら、思い上がりもはなはだしいし、アナクロニズムはたえがたい。ぼくは美術史家なのですよ。おもしろみに欠けるかもしれないけれど、ぼくには、あれやこれやと『現代思想』を使って、過去を私物化するなんてがまんしがたい。」 美術史家からの反論は、現代の理論家が対象となる作家の時代にはなかった理論(新しい後世の視線)で作品を読み解く時代錯誤(アナクロニズム)に集約されている。しかし、事実についての時代錯誤ならともかく作品を読み解くまなざしの時代錯誤を果たして時代錯誤だと言って済ませられるのか、といえばそんなお気楽な道理ではないことは素人目にもあきらかだ。ここには超越的なモノ自体と現象のあの古くからの問題が潜んでいる。もし絵画の正しい読みは作家の意図に合致するただ一つしかありえないと主張する頑固な美術史家がいるとすれば、彼/彼女は、われわれに現象として立ち現れるほかにないモノ自体をそれ自体として正しく認識する術がありそれ以外の見方は正しくないと主張していることになろう。果たしてこの見方は妥当か? 「自分のこと、美術史家だなんて思ってもだめだよ。だって、きみは理論や理論家が好きなんだからね。彼らはしっかりものを考えているし、ぼくたちの思考の助けとなってくれる。理論化連中が惜しみなく開陳してくれる、貴重な論証法や厳密な理論に対して、なぜ専門の美術史家たちはだんまりを決め込んでいるのだろうと、きみも不思議に感じているんだ。彼ら美術史家の答えは、きみも知ってのとおり、時間的な錯誤(アナクロニズム)を警戒するということに尽きている。いや、彼らにだって、それなりの言い分はある。一般的にいって、タブローを理論的に分析する際に、それが歴史的にいって適切かどうかなんて、あまり気にしないからね。ところが、きみの場合は、どちらかといえば、そういうアナクロニズムに迷惑しているわけだ。アナクロニズムが有無をいわさずに実行されると、解釈の対象よりも、解釈する当人の正体が割れるという感じになるからね。それでも、きみも結局、こうしたアナクロニズムは、美術史家にとって避けがたいものだと理解するようになったんだ。だって『十五世紀のまなざし』l'oeil du Quattrocento なんて、二度と見いだせるものじゃないんだからね。」 また、どれほど隅々まで統御された絵画であろうと、作家の意識とは無縁に意図せざるもの、意識せざるもの(無意識的なもの)が自ずと現れてしまうだろうことは某かの作品をしてみたことがあれば自明である。 さて、本書について美術史批判という文脈で駄文を草してきたが、美術史の門外漢である私には、実際の美術史家という種類の人々が美術解釈の世界においてどれほど幅を利かせているのか定かではない。つまり、アラス氏がこのように「なにも見ていない」と批判するところの相手がどこにいるのか、どんな主張をしているのか、ほとんど何も知らないのである。さりとて2000年に上梓された本書において、筆者がよもや死に馬に鞭をうっているわけでもあるまい。誠におかしな進みゆきではあるが、たとえばパノフスキー流(1968年に他界しているパノフスキーはともかくとして)の作品解釈がどの程度現在の美術史研究に影響を与えているのかを知ることがこの系列の問題についての私のつぎの課題かもしれない。 ただいずれにしても、なぜ複雑なものを複雑なままに見ようとしないのか、という問いを手放したくない私としては、アラス氏のつぎの言葉に心から賛意を表したいのである。 「ここでは、画家と注文主が思い描いたこととは無関係に、そんなものを超越して、このタブロー〔ラス・メニーナス――八雲註〕が、画家や注文主の死後ずっとあとも、視覚的な意味を生成していくかのように、すべてが運ばれていく。それこそが、おそらくは傑作というものなんだ」 百歩譲って唯一の正しい解釈なるものがあっても構わない。だが、それとは別に作品と受容者との遭遇によってそのつど生成する触発があること、そのことを認めなければ、美術なんてなんにもおもしろくないではないか。などと自分にとって当たり前に思えることを言うにしても、喧嘩相手がいないのでははりあいがない。 ダニエル・アラス氏や訳者の宮下志朗氏の略歴はそのうち作るとして、ここでは既存の邦訳書を一冊だけ。
★ダニエル・アラス『ギロチンと恐怖の幻想』(野口雄司訳、福武書店、1989/06)
★村田宏『トランスアトランティック・モダン――大西洋を横断する美術』(みすず書房、2002/10、Amazon.co.jp)
F.M.フォード(Ford Madox Ford, 1873-1939)が1924年に、エズラ・パウンド(Ezra Weston Loomis Pound, 1885-1972)の協力を得て創刊した雑誌のタイトルが『トランス・アトランティック・レヴュー』。このパリで刊行された雑誌には、フォード自身のほか、パウンドの『キャントゥーズ』の一部や評論、ジョイスの、後に『フィネガンズ・ウェイク』と呼ばれることになる作品(の一部)などが発表されたというのだから、その半世紀後に生まれた身としてはなぜそんなエキサイティングな雑誌を同時代に読む幸せにめぐりあえなかったのかと身勝手な地団太を踏むばかりだ。もっとも私がこうして惰眠を貪っている間にも、どこかで同時代人たちがエキサイティングな雑誌を刊行している(かもしれない)わけで、そんな悔しがり方をしてみても無意味なことこの上ない。 さて本書である。村田氏の目論みはこうだ。 「ここでは、1910-20年代のフランスにおいて、漠然とながら人びとのあいだで意識されるようになった『新しい国アメリカ』に対する共感とも憧憬とも呼びうる想念、そしてこれを背景にして生まれたある美的枠組みについて、多少とも鮮明にその輪郭を浮彫りにしたいと思う。端的に言えば、フランスとアメリカの間できり結ばれた深い美的交感の劇とはいかなるものであったのか――。」 「……筆者は、このようなフランスとアメリカのあいだの一連の美的交感を指して、ひとまず『トランスアトランティック』と呼ぶことにしたいと思う。マッチ棒やゴミの写真にパリの地図を配したマン・レイのパリでの最初のコラージュ作品《Trans Atlantique》(1921)のひそみにならうものであるが、マン・レイがみずからの大西洋横断を祝し、かつ大西洋航路の汽船を暗示したこの『トランスアトランティック』なる語を、同時代の美術の特徴的な一面を指示する言葉として用いるならば、この名称のもとに包括される同質の志向、いわばフランスとアメリカを架橋しようとする夢の痕跡は、じつは、枚挙にいとまがないほどなのである。 「そして、この『トランスアトランティック』の語を、さらに大西洋を挟んで展開されたヨーロッパとアメリカの美術全般に当てはめるならば、そこに思いがけない振幅と深度をそなえたほとんど不可測な射程が開けてくることもまたあきらかであろう。『トランスアトランティック』、すなわち大西洋の往来を契機として生みだされた作品、もしくは往来した作家が、二十世紀美術の重要な部分を構成していることは疑いないからである。ニューヨーク・ダダの画家たちやパリの『バレエ・スエドワ』に参加した画家、あるいは、ヨーロッパとキューバを往還したヴィフレド・ラムを論じた数章を含む本書を、『トランスアトランティック・モダン』と名づけるゆえんである」 随分エエ加減な引用の仕方だが、ここに引いた二つの文は「〈アメリカの少女〉――トランスアトランティック・モダンのために」と題された本書の序章の冒頭と末尾近くからとったものだ。上記した私の連想もあながち的を外してはいなかったようだ(時計の方じゃなくて、フォードの雑誌ね)。この問題設定が骨格であり、本書を構成する各章の具体的な記述が肉である。 大風呂敷を広げることが好きな私は、人が大風呂敷を広げるのを眺めるのも好きである。風呂敷は大きいほどゾクゾクする。この「トランスアトランティック・モダン」という風呂敷も相当大きなもので、私は序章を読みながらおおいにゾクゾクした。そしてゾクゾクしながら以下のページを読み進めた。そこには大西洋を挟んだ人と思想と作品の交流が細やかな筆致で描き出されている。アレンズバーグ・サークルとニューヨーク・ダダ、フランク・ロイド・ライトの「ホリィホック・ハウス」の検討、『バレエ・メカニック』の構成と成立に焦点を当てたフェルナン・レジェ論、ジェラルド・マーフィー論、パリに遊学しピカソとの交流もあったキューバの画家ヴィフレド・ラム(Wifredo Lam, 1902-1982)の『ベリアル、蝿の王』の鮮やかな読解……いずれも申し分なく面白い。 このおもしろさはなにか。それは作品や書物を通じて、個別に見知っている複数の〈点〉(人物や作品)が結び合わされ、時間の経過によって形を変える〈線〉と成る様を体験するおもしろさであろう。近く筑摩書房から著作集の刊行が予定されている山口昌男氏の『挫折の昭和史』(岩波書店、1995)や『「敗者」の精神史』(岩波書店、1995)、あるいは比較的最近では、『内田魯庵山脈――「失われた日本人」発掘』(晶文社、2001/01)、別の作家では中村真一郎の『木村蒹葭堂のサロン』 (新潮社、2000)、そういえば今年の春に刊行された亀山郁夫氏の快作『磔のロシア――スターリンと芸術家たち』(岩波書店、2002/05)にも同様のたのしみが満ちていた――などなど、この類のおもしろい本はいくらでも挙げられそうだが、本書もこの系列の書物に数えてよいだろう。こういった書物をなんと称すべきか適切な言葉を思い浮かべられないのだが、〈歴史〉というのでもなく、間に合わせで言うならば〈人間と人間の交渉史〉とでも言うのか、自分の記憶の中に住まっていて日頃は博物館の標本よろしくじっとして動かないのに、こういう書物を読むというとあれこれの人物たちが活き活きと動き出し、握手をしたり喧嘩をはじめたりする、そんな愉快な書物である。 私はとうとうゾクゾクのポテンシャルを維持したまま最後のページを閉じた。が、ふと我にかえって、不覚にも(?)物足りなさを覚えたのである。なぜか? 答えはすぐにわかった。そう、個々の論述がいかにおもしろいとはいえ、筆者が最初に広げて見せてくれた大風呂敷の広大さに比べて、包まれるものが小さく数が少ないのだ。もちろんこれは非難ではない。その逆であって、私は期待しているのだ。この風呂敷がいつか、本書で展開されたような細やかさを備えたトランスアトランティックな美と思想の〈交渉史〉のテクストで溢れかえらんばかりになることを。そういう意味では、本書は僭越を承知で言えば、トランスアトランティック・モダンへの序説、来るべき本論への助走とでも言うべき書物であるように思う。筆者はどこにも続きを書くなどと書いてはいないが、私は愉しみに待ちたいと思う。
以下余談。10/26日から横浜美術館で「ヴィフレド・ラム展――変化するイメージ」が始まる。また、人文書院から岡谷公ニ氏の編訳によるミシェル・レリスの美術論集第2弾、『デュシャン、ミロ、マッソン、ラム』(岡谷公ニ編訳、人文書院、2002/10)も先頃刊行された。ラム論は小さな評伝のようなテクストで、村田氏の論考を読んだ後ではいささか物足りないものの、ヴィフレドというあの不思議な名前の由来を教えられた。あるいはむしろ、レリスによるラムについての詩をたのしむべきだろうか。同書については近く駄文を草す予定である。といいつつ次回はダニエル・アラスの愉快な美術論――これもなんと称すべきか困った書物だ――『なにも見ていない――名画をめぐる六つの冒険』(宮下志朗訳、白水社、2002/10)について述べようと画策中。その宮下氏で思い出したけど、藤原書店から「バルザック・コレクション」に続く画期的企画「ゾラ・コレクション」がいよいよ刊行開始になる模様。いやはや時間がいくらあっても足りませんね、って手がけているゲーム制作(生業)のマスターアップ(締め切り)目前の私にはもとより私的な時間なんてありませぬが(とほほ)。誰か時間をゆずってください。
★鹿島茂『成功する読書日記』(文藝春秋、2002/10、Amazon.co.jp)
でも今回は神田の三省堂一階文学関連コーナーの書棚で本書のブルーの装丁を見つけたとき退きましたよ、ちょっと。『成功する読書日記』って、ナポレオンヒルかと。ビジネス啓蒙書かと。で、そのときは他に買わねばならぬ本が沢山あったので見送りましたよ。読書日記で成功したいなんて思ってなかったし買うにしてもレジで「あら、この人読書日記で成功を勝ち得るつもりだわ、いやあねそんな下心で本を読むなんて。成功しっこないわだめよきっと」などと店員に蔑まれるのもいやだし(妄想)。 ところが数日後、私は窮地に立たされていました。先日ご紹介したウエルベックの小説の主人公の意見を借りると、ちょうどこんな状況⇒「目下の問題はなにか読むものを探さなくてはならないということだ。読書のない生活は危険だ。人生だけで満足しなくてはならなくなる」――に陥っていたわけですよ有体に言えば(そんなたいそうなものではないですけど)。これなら今日一日は保つであろうと持ち歩いていた小説があまりにつまらなかったので途中から速読にきりかえたんですね。容赦なくページをめくるアレね。猛スピードで俺はってなもんです。そりゃめくりました。だってそれでもわかっちゃうんだから。って、それが誰のなんて本かは教えませんけどそういえばこの小説、雑誌に鳴り物入りで連載されたときにも私読もうとしたですよ。でも駄目でした。そんな小説が上下巻の立派な装丁で刊行されたからといってまたぞろ自腹を切って購入するのが悪いといえば悪いのですが、雑誌連載時は僕も体調が優れなかったかなんかだったのだろうとたかをくくっていたんですわ。まあそれがこのテイタラク。 脱線したけど(ってこのサイトがそもそも脱線なんだけど)、そんなこんなでその、一度は村上春樹の『海辺のカフカ』と同時に書店に平積みされたにもかかわらず数日後には返本されたのに、その何日か後にどういうわけかまたまた平積みにされ、けれども今度はすぐに撤去されたその小説のページを最後までめくりおわってしまったものだからさあ困った。昼休みに駆け込みましたよ、学生街だのに(だから?)ベストセラー専門の書店に。で、棚を猛スピードで見ましたよ。てってもその前日も棚を見ているわけだから、売れたか返されたかでいなくなった本と新しく並んだ本に目がいくのね。あまりそのときの気分にマッチする本がなくてアレで妥協するか、なんて家にもあって読んだこともあってすでに面白いことがわかっているSFを買おうとした矢先ですよ、その本に再会したのは。で、先日は見送ったけど今回は買いましたね。鹿島氏だからしょうがねぇなあなどと言いながら。でも成功したいわけじゃないよ、なんて誰に向かってでもなく言い訳なんかしながら。 結論から言うと、おもしろいんですよ、この本も。買書や読書にまつわる短いエセーを何篇かと、鹿島氏の成功している読書日記を何ヶ月か分あわせた本なのね。だいたい人様がどんな本をどういう風に読んだかというのは、とりわけ鹿島氏のように愛書狂という芸をもっているような人の場合は、おもしろいのね。冒頭に書いてある、読書は濫読(量の読書)をしているとそのうち「この著者の本やこの著者に関する本を全部読んでみよう」とか「この分野、このテーマの本を体系的に読んでおこう」なんて、自然と縛りがきいてきて体系化を志向する読書(質の読書)に転じるときがくる、だなんて節はそれは激しく首肯しましたよ。なんせその罠にはまった所為でなんの因果かこんなサイトを作ってしまっているわけで。そのサイトではあんまり言及しないけど、各種分野の体系化(といえば聞こえがいいがとどまるところを知らないコレクター的欲求みたいなものですな)が本人も預かり知らない速度で進展しつつある――といってもそこには自ずと経済的制限というリミッターはあるんですが――常識的な社会人として(あるいはせめて装って)生きるにはいささか不都合な窮地に置かれる次第。なにせ、体系化というのは(なにかのコレクションにはまったことがある方ならこれから言うことに覚えがあると思いますが)一度軌道に乗り始めると、読者たる自分の意志というよりは集め読まれている書物群から「つぎはあれを読め」「そしてこれを入手せよ」と命令されるのですから(一種の電波ですか、これも)、もはや誰の意志で読んでいるのか/読まれているのか不明な事態にいたるわけです。 するとどうなりますか、ってすでに失敗する読書日記の領域に突入してますか、これ。いや、書きながら自分でもちょっと怖くなってきました。あ、マルセル・デュシャン系から命令が……え? この前書店でみたレゾネはどうなったかですって? う。え? なんです? 今度はラヴクラフト系からお呼びが……、ウエルベックの処女作はラヴクラフト論らしいがなぜお前はまだ読んでないんだですって? うぅ。すいません。え、ええ!? 映画系さん、『映画の音楽』に出てくる作品の2割も観ていない作品があるなんてなんという怠惰だ! サントラともどもすぐ揃えて視聴せよ、ですって? あわわ、ただいま! 途中ですがちょっと書店に行ってきます。すいません、すぐ戻りますから、えと、次回は村田宏『トランスアトランティック・モダン』(みすず書房、2002/10)の予定です。できればレリスも。あ、え? 早く本屋へ行け? はい、ただいま。
★フランシス・フクヤマ『人間の終わり――バイオテクノロジーはなぜ危険か』(鈴木淑美訳、ダイヤモンド社、2002/09、Amazon.co.jp)
フクヤマによれば、バイオテクノロジーはこれからの政治に重要な影響を与える。なぜなら、バイオテクノロジーが可能にする(であろう)人間の変容が、企業の<自由な>利潤追求のもとに進められればろくなことにならないことは明らかだ。人間の能力の拡張・選別(遺伝子工学によるデザイナー・ベビー)は、持てる者と持たざる者の間に単なる経済的な次元を超えた格差を導入し、「人間の平等性」という(ただでさえ多大な苦労によって維持している)概念を名実ともに崩壊させてしまうであろう。また、薬物による情緒のコントロール(プロザック、リタリン)は、人間による人間の支配の形態を変化させずにはおかないだろう。無論、バイオテクノロジーの発展はマイナスばかりではない。 この技術の発展が人間にもたらすメリットとデメリットを測りつつ、人間本来の性質をバイオテクノロジーの発達から守りたいというフクヤマの対処案は、きわめてシンプルだ。 「このように、プラスとマイナスが密接に絡み合っているテクノロジーに直面したとき、とりうる対応はただ一つ。諸国家がこうしたテクノロジーの開発と利用を政治的に規制して、人間の繁栄を促すテクノロジーと、人間の尊厳と幸福にとって脅威となるテクノロジーを明確に区別する機関を設立することだ。この機関は、国家レヴェルで区別を強制する権限を与えられるだけでなく、最終的には国際的範囲で効力を持つ必要がある」 もちろんフクヤマの見方を楽観的だと批判することはできる。そもそも、軍事・環境・経済その他のあらゆる分野で独善・独断的にふるまうアメリカ合衆国政府からして、そのような機関に従うとはとても思えない。 とはいえ、フクヤマの提案は、手をこまねいてなにもしない(できない)よりかなりマシなものであるのは確かだ。結局のところ、たとえイデオロギーの闘争が終焉したのだとしても、技術と資本に対する闘争という古くて新しい問題が消え去ったわけではない。この闘争をいかに闘うか。本書はそのありうるひとつの指針を示している。 ★RAND‐フクヤマが所属するシンクタンク RAND のサイト。(英語) ★Information and Biological Revolutions: Global Governance Challenges: Summary of a Study Group‐『人間の終わり』に先だって刊行された研究会の報告。PDFで閲読できる。(英語)
★ミシェル・ウエルベック『プラットフォーム』(中村圭子訳、角川書店、2002/09、Amazon.co.jp)
この男のこれといって不自由のない暮らし振りに、ウエルベックは駄目を押すように小説の冒頭で、ミシェルの父を殺し、ミシェルに遺産を与える。ミシェルは、ポール・オースターの『孤独の発明』の主人公のようには父親の死について考えることはない。むしろなんぼなんでもあっさりしすぎていやしないか、と思われるほどドライだ。ともあれ、これでミシェルは当面、生活のための仕事さえしなくてよい身分になった。後にミシェルが西欧人一般に仮託して述べるように、彼自身がセックス以外に不足するものがない人間になりはてたのである。いや、それとて不自由しているわけではない。 ミシェルは職場の帰りにピープショウで睾丸を空にし、旅先のタイでは娼婦を買う。セックスに不自由はしない。金があればセックスは手にはいるのだ。旅先で知り合い、パリに戻ってから再会したヴァレリーとは四六時中セックスをする。小説はそのセックスの合間を縫って進んでゆく。 そんなミシェルが、旅行会社で企画の仕事をしているヴァレリーとその上司ジャン=イヴと付き合うなかで、こんな思いつきをする。 「『一方に数億人という西欧人がいる。彼らは欲しいものはなんでも持っている。ただし性の満足だけは得られない。探してはいる。ずっと探しつづけている。しかしなにも見つけられない。そして骨の髄まで不幸だ。もう一方に数億人という持たざる人間がいる。彼らは飢餓に苦しんでいる。若くして死んでいる。不衛生な環境で暮らしている。体と、まだ傷のついていないセックスを売るほか手段を持たない。ことは簡単だ。至って簡単じゃないか。まさに交換にうってつけの状況だ。そこから回収しうる金は想像を絶する額になるはずだ。コンピュータ、バイオテクノロジー、メディア産業なんて目じゃない。比肩しうる業界なんてありえない』」 「セックス観光とは世界の未来像なのだ」というわけだ。ミシェルは、自分が何かの役に立ち得るのではないか、自分にはこの資本主義のルールの中で何事かを為し得る力があるのではないか、という期待と興奮を覚える。 「僕らは非現実じみた興奮状態の中で、この世界の運命のための土台(プラットフォーム)を打ち立てていた。僕が出す提案が、結果として百万フラン単位の投資や、何百人の雇用に展開するかもしれなかった」 この思いつきはヴァレリーとジャン=イヴによって実行にうつされるだろう。タイにセックス観光のための施設を設け、ツアーが企画され、一時は万事が快調で、それに関わる誰もがハッピーに見える。彼/彼女らは「幸福を案出した」(ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』)のだ。 本書は、衣食住足りて、かといって際限ない差異化(たとえばブランド、現代美術)のゲームにもさしたる興味をもたない<末人(最後の人間)>が、そこから出ようにも出ることのできない資本主義のゲームのルールにのっとって半ば気晴らしのような企図を実現しようとする、そんな話だ。もはや快楽のほかに商品はないといわんばかりの彼らの企図をテロによって妨害する役回りがイスラーム原理主義に割り当てられている点、いささか図式的ではある。作中に見られる粗雑なイスラーム批判の文言もどうかすると作家の意見であると読まれる危険があるだろう。けれども、飽くまで末人ミシェルに焦点をあてて、その軽薄さとニヒリズムをそのままに描き出すことが作家のねらいであるとすれば、この作品の読みどころがそんなミシェルと彼を取り巻く世界との距離感にあることは言うまでもない。 ウエルベックの作品を読む都度、否応なく後味の悪さを味わうのは、あたかも自分の愚かしい毎日がそこに描き出されているように感じるからだろう。途中何度も投げ出したくなりながら、とうとう最後まで読まされてしまうのも、どうやら読み手のナルシシズムのなせる業(とはつまりウエルベックがそれを駆動させているとも言えるわけだが)だろうかと疑うのだが、それは穿ちすぎというものだろうか。 バリ島で爆破テロがあった日に。 ウェルベックの作品には次のものがある。 ★H.P.Lovecraft: contre le monde, contre la vie(Editions du Rocher, 1991) ★Rester vivant - méthode(La Différence, 1991) ★La Poursuite du bonheur(La Différence, 1992) ★Extension du domaine de la lutte(Maurice Nadeau, 1994) ★Le sens du combat(Flammarion, 1996)
★Les Particules élémentaires(Flammarion, 1998) ★Interventions(Flammarion, 1998) ★Renaissance(Flammarion, 1999) ★Lanzarote(Flammarion, 2000)
★Plateforme(Flammarion, 2001) 経歴、書誌については次のサイトに詳しい。 ★michel houellebecq‐略歴、書誌など(仏語)
★『早稲田文学』2002年11月号(早稲田文学会、2002/11) 鎌田哲哉氏の連載評論「進行中の批評」が最終回を迎えた。今回は、浅田彰氏を俎上にのぼせている。要すれば、これまでほとんどつねに「書かぬ人」といわれ、実際、時評的エッセーと対談以外にはまとまった書物を書いてこなかった浅田氏に対して、本当は書けないのではないのか? にもかかわらず常に「あえて(書かない)」といった態度を表明しつづけてきたのは欺瞞ではないのか? と、挑発する内容だ。 「なぜ彼は書かないのか?」とは鎌田氏に限らずしばしば批判者が述べてきたところではあるが(とはいえ鎌田氏のように持ち前の――と私が思う――ねちっこさでもってここまで迫る言葉は見たことがないけれども)、私にはこれらの批判(?)は、「彼が書くものを読みたい」というラヴ・コール以外のなにものにも読めないのだ。そしてむしろ個人的には、「なぜ書かないのか?」という問いよりも「『なぜ書かないのか?』と詰め寄るのか?」の方に関心がある。 どこかで森毅氏が、みんなが浅田くんをすごいと言っているが、それはちょっと出来のいいコンピュータみたいなもんでそれ自体は驚くことではない。彼の真骨頂はその編集能力にある、とコメントしていたが、この寸評を読んでから今日までの浅田氏の仕事を――飽くまで管見にすぎないが――拝見していると、森氏の寸評はまったく的を得ているし、実際、非常に優秀な編集者であると考えれば浅田氏がものを書かないことはとりたてて非難されるべきことではないと思うのだ。 その最初に耳目をひいた作品が『構造と力――記号論を越えて』(勁草書房、1983)であったがために、人は浅田氏を思想家と見なしがちだけれど、あの明晰で愉快な書物にしても本人が言うようにフランス現代思想の見取り図を提供する以上の書物ではなかった(もちろんそれは誰にでも書ける書物でもない)。情報を集め、圧縮し、提示する。この編集者・評論者としての仕事ぶりはそのときから今までなんら変わってはいない(主張については鎌田氏が傍証しているように必ずしも変節していないとは言えないが)。そんな人物に向かって「なぜ書物を書かないのですか?」と喧嘩をふっかけてみても、八百屋に駆け込んで「やい、CD-Rを寄越せ」という(あるいは逆にパソコンショップに駆け込んで「やい、キャベツを売らないか」でもよいが)のと一般で詮無いのではないか。 私とて浅田氏が本を書くなら手にとって読みたいと思う。けれど、だからといって鎌田氏も借金させてくれて有難うだなんてことまで言って迫るのはどうかと思う。のだけれど、<本当は書けるんだけど「あえて」書かず「あえて」エッセイや対談といった形で公表するのだ>といった態度を半ば芸風として落ち着かせつつあるように見えなくもない浅田氏に苛立つ気持ちもわかるので、もしその迫り方によって浅田氏から某かの応答や生産が引き出せるのならこの際どこまでが私信なのかわからない鎌田氏のローマ字文章には目をつぶりたいと思う。って、私が目をつぶってもつぶらなくても大勢に影響は皆無だけれどね。
創刊111年の本号は、「111年の評論」と称して明治24年の創刊号から第3次までの評論から30本ほどを再録した特集。 ★早稲田文学‐著作目録、年譜ほか ★早稲田文学総目次データベース‐創刊号以来の総目次を検索できる
★大江健三郎『憂い顔の童子』(講談社、2002/09、Amazon.co.jp)
本書は『取り替え子』の延長にある作品だが、重心は古義人の意見と生活にシフトしている。もっと言ってしまえば、本作の主題は古義人の小説が複数の読み手たちに喚起してきた無数の読みの抗争、あるいは読み以前のところで生じてきた軋轢と衝突、とどのつまりは作家自身の生と作品の軌跡を多重多面的に検討することだと言ってよい。作品全体に作家の総決算――作家の言葉を使えば「締めくくり」となろうか――一歩前という気迫が満ちている。 故郷の四国の森に帰った古義人につきそうのは、息子のアカリとアメリカ人のローズさん。ローズさんは、古義人の作品を研究対象にする文学研究者であり、古義人の作品に精通している。妻の千樫は前作で登場した吾良の子を産んだという女性の世話をするために遠くドイツにおり、本作では結末までほとんど登場しない。また、古義人のもっとも厳しい批判者の一人である母のほか、作中には古義人の作品を批判的に検討し「アレ」の正体をつきとめようとする読み手も現れる。前作に対する解釈を雑誌に寄稿して古義人の怒りを買う批評家も――この場合現実からの引用ではあるが――古義人読みの一人として数えてよいだろう。また、作家の作品をどこまで読んでいるかわからないものの作家の知名度に目をつけて事業に利用しようとする事業家とその妻、作家親子に差別的発言を投げつける地元中学校の教師、顔馴染みであったか定かでない同窓の者たち、事実の追求よりも耳目をひくための記事を書くことをしか目指していないかのようなジャーナリストたち、は古義人の「よい読者ではない」にもかかわらず、メディアとしての古義人に拘りと意見(偏見)を持つ人々だ。 本作は、こうした人々と読みに囲まれながら、次なる、おそらくは今度こそ「最後の」(?)小説を構想する古義人の戦いと冒険の記録である。作家は戦いの中で文字通り心身ともに傷つき、破れ続ける。その様は、本作の主な参照作品である『ドン・キホーテ』の主人公たる「憂い顔の騎士」の過激で狂気的な冒険に重ねられもする。 一見ローズさんこそは古義人のよい読者であるかのように見えるが、アメリカ出身の彼女はむしろ古義人の作品(虚構)を通じて四国の森(現実)を見る読者にすぎない。また土地の人々は古義人作品を育んだ舞台である森(現実)を知っているかもしれないが、ローズさんとは逆に古義人の作品(虚構)に通じていないのだ。作中に現れるもっとも可能性を秘めた読者は、むしろ痛烈な批判者であると同時に作家の出自を知る母である。彼女は古義人の作品がその元にある土地の歴史や伝承に忠実であるかどうかを研究する女性研究者に喝破する。 「……私はわずかしか読んでおりませんが、古義人の書いておりますのは小説です。小説はウソを書くものでしょう? ウソの世界を思い描くのでしょう? そうやないのですか? ホントウのことを書き記すのは、小説よりほかのものやと思いますが……(中略)それではなぜ、本当にあったこと、あるものとまぎらわしいところを交ぜるのか、と御不審ですか?/それはウソに力をあたえるためでしょうが!(中略)そのうち気がついてみると、これまでさんざん書いてきたウソの山に埋もれそうになっておる、ということでしょうな! 小説家もその歳になれば、このまま死んでよいものか、と考えるのでしょうな」 私はこの母に「なぜ古義人は小説を書くのだろうか」と聞いてみたかった。だがその母も作品の半ばで世を去ってしまう。 私の見るところでは、本書において次に興味深い読み手は、古義人=ドン・キホーテに対してときとしてサンチョとも学士サンソン・カラスコとも喩えられる真木彦だ。真木彦は作家に向かってこう言う。 「あなたがね、人間としても作家としても、いまやまあ、その経歴の終わり方を覚悟して行動される。死の床のドン・キホーテの改悛とは反対にね、常識人の正気など蹴っとばされるのなら、私はあなたについて行きますよ!」 死への自覚を保ちつつ常識人の正気を蹴っ飛ばす。これは作家自身がまさしく行おうとしていることではないか。本書はその頂点へ向かうための加速運動のように思えるのだ。
「読みなおすこと」(re-reading)――「《ロラン・バルトは、すべての真面目な読書は『読みなおすこと』だといっている。これはかならずしも二度目に読むことを意味するのではない。そうではなくて、構造の全体を視野に入れて読むことだ。言葉の迷路をさまようことを、方向を持った探究に転じるのだ。》/古義人は、フライの談論(ディスコース)どおりに『読みなおすこと』をしています。かれにはもう言葉の迷路をさまよっている時間がないんです。現在のかれの読書は方向を持った探究だと思います。」――これはノースロップ・フライの教えを受けたというローズさんが古義人の読書と作品の態度を第三者に解説して述べる言葉だ。さ迷うのではなく、方向を持った探究をなすこと。いまや老年に達した作家にとって「読みなおすこと」は以前にも増して切実な営為になりつつある。 このことは同時に、本書のような作品を書くにいたった大江自身の書くことの指針でもあるように思える。 re-writing――書きなおすこと。大江は自分が書きなおしをする作家であることについて何度か語ってきた。一度書いたものを書きなおす作業は、言葉を言わんとしたことへ可能なかぎり近似させようとする努力であり、「読みがたい悪文」との評を得る原因にもなった(ところで私は人が言うほど大江の文章を悪文だとは思わない、というよりもむしろその何かが組み立てられて行くような文書を読みやすいとさえ思う)。本作品は、いわばこれまでの作品の大きな書きなおしであり、方向を持った探究をなすための準備であるのではないか。それは、本作品で作家が想像力の源泉である故郷の森へ帰還してその源泉と向かい合いつつ最後の作品を構想しようとしていること、これまでの作品にあらわれた重要なモチーフがこの作品全体を通して反復されていること、作中において多くの読者が多重に存在して諸解釈を提示し、作品と現実との間におこる摩擦までもが作中にとりこまれていることからの推測に過ぎないが。 私の与太はともかく、本書にしくまれた「小説のたくらみ」は、読者を本書に熱中させるのと同時に、次回作への否応ない期待を高めさせるのに十分な力を湛えている。 ★大江健三郎ファン倶楽部‐著作目録、年譜ほか
★『小林秀雄全作品1――様々な意匠』(新潮社、2002/10、Amazon.co.jp)
書肆は新しい全集を刊行する際には、前回の全集の読者に便宜をはかってほしいと思う。たとえば、新しい全集で初収録の作品だけをまとめた版を刷って別売するとか、あるいは旧全集各巻へのサプリメントでもなんでもよいけれど、そういうケアをするとか。誠に勝手な意見とは知りつつ、誰それの新しい全集のパンフレットを見るたびに思うのだ。が、考えてみれば、全集という形態の刊行物は、「やれ、また出るか誰それの新しい全集が。しかたがないな」と言いながら懲りずに買う読者を相手に企てられているのかもしれない。とは、刊行物の企画・編集についてなにも知らない一読者の憶測というか妄想にすぎないが。だとすれば(とは妄想の続きね)、もし「要望にお応えして前回の全集の読者のために、今回は新しい全集とは別に前回の全集にない作品だけを集めた前期全集補巻をご用意しました」と気の利いたことをする書肆があらわれたとしたら、その別巻ばかりが売れて肝心の新しい全集がほとんど売れなくなってしまうかもしれない。そもそも世に出ているあれこれの全集が何部ほど売れているのか、皆目見当もつかないけれども。自分の仕事に事寄せて考えれば、ゲームのシリーズものをつくるときに、「じゃあ、前作を買ってくれた人は500円でヴァージョンアップしてあげます」とは言わずに「さあ、シリーズ最新作が出来ました。今回も12800円出してね(もちろん次回も)」と言うようなものだろうか。ま、商売ですからして。 と言いながら、偶々立ち寄った書店で、
★山田風太郎『戦中派焼け跡日記』(小学館、2002/08)
などを手にしたドサクサに紛れて買ってしまった『小林秀雄全作品1――様々なる意匠』(新潮社、2002/10)も。全集は部屋のどこかにあるとしてもとてもすぐには出てきそうもないこと(同じ作品を二度三度入手するときの常套句)/文庫版も先日どこかへ片付けてしまったこと/今回の全作品は装丁もコンパクトで邪魔にならなさそうなことがその主な理由だが、どうして本を買うたびに理由を述べているのか自分でもまったく訳がわからない。 それはそうと買ったからには読むわけだが――つい先頃読み始めたところだが前作に引き続き、怒れる老人・古義人(=大江健三郎)の冒険のあまりの面白さにページを繰る閑もあらばという勢いで読みつつある、大江健三郎『憂い顔の童子』(講談社)を仕方なく一端脇に置いて――ページを開いてびっくり。何度読んでも印象に残らない「蛸の自殺」の冒頭からしてなにかちがうのだ。と思ったらなんのことはない、新字体新かな遣いになっているぢゃないか(しかも脚注つき)。あれあれと慌てて同全集のパンフレットがそのまま挟みこまれていた『波』2002年10月号の当該個所をひらくと、うたい文句に書いてある。「新字体、新かなづかいの小林秀雄/脚注もついて――読める、わかる小林秀雄」って。書店の軒先でこれから買おうという本の中身を少しも見てないのがバレバレだ。ともあれ、このコピーを読んでいるとまるで従来の全集は「旧字体、旧かなづかいの小林秀雄/脚注もなくて――読めない、わからない小林秀雄」と言われている気がして。 ★小林秀雄についてのページ‐著作目録、年譜ほか
★『Perseus 2.0』(Yale University Press、2000、Amazon.co.jp)
Aeschines, Aeschylus, Andocides, Antiphon, Apollodorus, Aristophanes, Aristotle*, Bacchylides, Demades, Demosthenes, Dinarchus, Diodorus Siculus*, Euripides, Herodotus, Hesiod, Homer, Homeric Hymns, Hyperides, Isaeus, Isocrates, Lycurgus, Lysias, Pausanias, Pindar, Plato, Plutarch*, Pseudo-Xenophon, Sophocles, Strabo*, Thucydides, and Xenophon アスタリスク(*)がついた作家は、作品集、つまり全作品ではなく一部の作品のみを収録だが、他は全作品が収録されている。 コンピュータを使っているのだから当然この上ないことではあるけれど、これだけの資料がハイパーリンクで相互参照できるのは誠にありがたい。とりわけ入力した単語の語形変化を分析してくれる Morphological Analysis ツールは入力した単語の時制・性・品詞・格・数などを教えてくれるもので、辞書をひく苦労が大幅に軽減される(ギリシア語の辞書を引くためには、まず意味を知りたい単語の、辞書に載っている形を知らなくてはならないのだ)。また、(これも当然といえば当然のことながら)ツール類は互いに連携して使うことができるので、Morphological Analysis ツールで調べた単語をさらに希英辞典で引いたり、作家の作品での使用頻度を調べるツールに渡してどんどん深みにはまってゆくことができる次第。 1996年に本ソフトのマック版が出たとき、私はマックを買うべきか真剣に悩んだ。が、仕事でマック版のソフトをプログラムしていた私は、使い手の都合とは無縁にマックが義務でやっているとしか思えない一日数回起こるハング(例の爆弾マークだ)に嫌気がさしていたところでもあり、さすがに『Perseus』のためにそんなマッキントッシュを買う気はおきなかった。だってハングするんだもの。いや、ハングするのはDOS/Vマシン――というか当世風に言えば Windowsマシン――も一般だが、経験上マックほどではない。とはいえ、それは私の場合だけなのかもしれないが。 さて、そんな素晴らしい『Perseus』に、ひとつだけ難点をいえば、どことなくこなれていないインターフェイスである。これはOEDのCD-ROMを入手したときにも思ったのだが、コンテンツが優れているだけにもったいないことだ。とはいえ、このソフトの素晴らしさに比べれば、たいした問題ではない。 『Perseus』で愉しいギリシア語を。 ★The Perseus Digital Library‐タフツ大学ペルセウス・プロジェクトのサイト。(英語/希語/羅語)
★古典ギリシア語事始‐近藤司朗氏による古典ギリシア語案内。愉しいギリシア語の第一歩はここからどうぞ。
★『カフカ小説全集』(全6巻、池内紀訳、白水社、2000-2002、Amazon.co.jp)
では、今回の手稿版による作品は従来のブロート版とどこが異なるのか? という興味がないわけではないがそんな比較は手に余るし能力もない(と言いつつそんな能がなくとも比較すればたちどころに誰にでもわかる違いをひとつあげてみると、たとえば『アメリカ』と『失踪者』は構成が異なっている。私の手許にある『アメリカ』は、中井正文氏によるクルト・ヴォルフ社からの翻訳書が平成6年に角川文庫から「偉大なる不良たち」と題されて復刊されたもので、池田満寿夫の絵画をあしらった瀟洒なデザインの文庫本〔帯には浅田彰氏が「20世紀はカフカに『不条理』を見た。冗談じゃない。残酷な笑いに満ちたカフカの作品は、文学の21世紀を予告しているのだ」という言葉を寄せている〕だが、このたびの『失踪者』では断片として収録されている文章がこの『アメリカ』では、タイトルが与えられあたかもそれまでの6章のつづきであるかのようにその後ろに配置されている)。というわけでカフカが書いた作品をカフカが書いたとおりに読める(とはいえ、これはそれを日本語に置き換えたものなのだから「カフカが書いたとおりに」とはいえないわけだが :-)そのことを喜びつつ、新しい邦訳を愉しみたいと思うばかりだ。カフカのプロフィールはそのうち作ることにして、ここには白水社版カフカ小説全集の構成を記しておこう(と思ったが面倒なので簡単に)。
・1『失踪者』 なお、フィッシャー書店の原典批評版は、現在ペーパーバックで入手できる。リンクを貼ろうと思ったら、うまくゆかなかった。ので関心のある向きは、上記フィッシャー書店のサイトで Kritische Ausgabe を検索して探されたい。 そういえば、一時期渋谷の Book1st で訳者・池内氏のサイン入り本を見かけた。カフカの作品に訳者のサインがはいっているのもなんだか変な心持がするものだが、そういうものだろうか。 ★Franz Kafka‐カフカ全集を刊行しているフィッシャー書店のサイト内にあるカフカ関連のページ。(独語) ★カフカ生原稿からのはじめての翻訳+評論‐頭木弘樹氏によるサイト。Der Process(『訴訟』あるいは『審判』)の手稿に拠る部分訳と評論。
★高野文子『るきさん』(ちくま文庫た31-1、1996、Amazon.co.jp)
最新刊『黄色い本』(講談社、2002)、『ユリイカ』2002年07月号「特集=高野文子」(青土社)もお忘れなく。
★ことりのうた‐高野文子ファンのサイト。作品リスト、掲示板など。
何日(何週間)振りだろうか、朝家を出て会社以外の場所へ足を向けるのは。私は実に開放的な気分で用件をこなした。やらねばならないことが沢山あっても一向に気にならない。
★エリック・ホッファー『波止場日記――労働と思索』(田中淳訳、みすず書房、1971/04; 2002/08、Amazon.co.jp)
「三月二十二日
本書を読むと、労働と思索(本書の原題は「波止場での労働と思索」)は二つながらにホッファーにとって欠くことのできない営為であったことがわかる。休日がつづくとかえって思索が滞り、休日の終わりがやってくるつどホッファーは思考がふたたび回りはじめればよいのだが、と期待の言葉を日記に記す。自分で望んだ日に、働きながら考え、考えながら働く。そんなシンプルなことが、いまの私にはいやに難しいことのように思える。それはひとえに怠惰のなせるところであろうとわかりながらも/だからこそ、ホッファーのそういう生き方にどこか憧れてしまうのだ。
★ジェイムズ・ウッダル『ボルヘス伝』(平野幸彦訳、白水社、2002/08、Amazon.co.jp)
「存外退屈だ」といったが、それにはもちろんボルヘスに関心がなければ、との留保がつく。ボルヘスを愛読する読者としては、「自伝風エッセー」でわずかに垣間見ることができるボルヘスの知的なバックグラウンドに飽き足りず、彼がどのように書物とつきあったのか、諸言語を習得したのか、どのような交流を持ち、活動したのかといった伝記的関心を持たずにはいられないだろう。つまり、ボルヘスという図書館はどのようにして出来上がったのか、と。そういう意味で本書はさしあたり満足すべき情報を提供してくれる。
本書を読みながら、私はより完全なボルヘス全集の出現を待ち望む気持ちを強くした。エメセ版は全集というには物足りず、プレイヤード版はすばらしい編集だが完璧ではない(そもそも全集に完璧など求めるべくもないが)。もっとも、版を改めるつど加筆修正を加え、ときには自ら出版を禁じたボルヘスの諸作品を全集という形にまとめるのは、並大抵のことでは適うまいが。
★フランシス・ウィーン『カール・マルクスの生涯』(田口俊樹訳、朝日新聞社、2002/09、Amazon.co.jp)
「哲学者は思想を、詩人は詩を、牧師は説教を、教授は概説書を生産する、等々。犯罪者は犯罪を生産する。このあとのほうの生産部門と社会全体との関連をもっと詳しく考察すれば、多くの偏見を免れるであろう。犯罪者は犯罪を生産するだけでなく、刑法をも、またそれと同時に刑法を講義する教授をも、またさらに、この同じ教授が自分の講義を『商品』として一般市場に投ずるために必要な概説書をも、生産する。これによって国民的富の増加が生ずる。……犯罪者はさらに、警察および刑事裁判所、刑吏、判事、絞首刑吏、陪審員などの全部を生産する。そして、これらのいろいろな職業部門はすべて、社会的分業のそれだけの数の部類を形成しつつ、人間精神のいろいろに違った諸能力を発展させ、新たな諸欲望とそれらを満たす新たな諸方法とをつくりだす。拷問だけでも、きわめて巧妙な機会的発明のきかっけを与え、その道具の生産にたくさんの尊敬すべき職人たちを従事させた。 犯罪/者がいかに多くのものを「生産」していることか! マルクスはこの断章の最後にマンデヴィル(Bernard de Mandeville, 1670-1733)『蜂の寓話――私悪すなわち公益』(The Fable of the Bees: Private Vices, Publick Benefits、1714; 泉谷治訳、叢書・ウニベルシタス、法政大学出版局、1985/06)の一節――私的な悪徳が公共の利益につながっているとの主張――を引くのを忘れない。ではなにがマルクスに書物を書かせるのか? もちろん、他人の愚劣や資本の犯罪、従来の経済学の誤謬である(ウィーンを読むわたしたちとしてはマルクスの生活人としての不器用さも数え入れておくべきだろう)。マルクスはそれらの愚劣にまみれ、愚劣に立ち向かうためにペンを走らせた。 「こんなに金に不足している人間が、”金”について書いたことはこれまで一度もなかったのではないか」とマルクスは冗談めかして言う。しかし、人が金について真剣に考えるのは、もちろん金に困る(金の困窮ばかりでなく金への渇望も含めて)からだ。ある作家の著作と生活をそのように結びつける必要はどこにもないが、ことマルクスに関しては、上記したように彼自身、置かれていた生活環境と自らの仕事の間にある関係を多いに意識していた節がある。
そのように、たしかにある状況、ある時代の只中から送り出された書物が、いつしか時代と場所を離れて、しかしながらやはり別のある時代の只中で、ある時代の状況のもとで読まれる。たとえばカール・マルクスと縁も所縁もない私やあなたが彼の『資本論』をそれぞれの関心によって繙くように。ウィーンの伝記は、かつて、すでにマルクスの書物が私の周囲ではなんらの危険も刺激も神秘も湛えていなかった、そういう時代にマルクスを読み始めた私に、マルクスの諸著作が持つ攻撃力がかつてどこへ向けられたものであったかを教えてくれる。そう、本書はいってみればマルクスの喧嘩の骨法を知るための書物である。
もう数週間にわたってうちつづく深夜に至る労働。そんな労働から帰宅して、ビールを飲みながら入手したきり机に置いてあった本の山から一冊を手にとる。
★エリック・ホッファー『エリック・ホッファー自伝――構想された真実』(中本義彦訳、作品社、2002/06、Amazon.co.jp) 明日のためにすぐ眠るつもりでパラパラと冒頭だけ眺めておこうと読み始めたのだが、結局そのまま読了した。ホッファーを読む一時間はまことに幸せであった。
この忘れ難い爽やかなエピソードには、ホッファーの生と思想のスタイルが見事にあらわれているように思われてならない。本書は、『大衆運動』(The True Believer: Thoughts on the Nature of Mass Movements, 1951)や『現代という時代の気質』(The Temper of Our Time, 1967)などの著作で知られるこの男、エリック・ホッファー(Eric Hoffer, 1902-1983)が、半生を顧みた一書である。幼少時の失明と失明からの回復、自殺未遂、放浪、労働、読書、思索、執筆。その生の軌跡は、もし波乱万丈という言葉をある人間の生涯に対して使うならホッファーこそはそれにふさわしいと思わずにはおれないユニークさをたたえている。 本書を何よりも印象的にしているのは、ホッファーが自らを語る場面というよりもむしろ、放浪と労働の毎日のなかで出会った人々との間に起こる出来事、その描写の鮮やかさだ。私が野暮な筆でここに不器用な要約や紹介を記すよりは、ぜひとも本書にあたってほしいのだが、ホッファーは自らもそうであるところの季節労働者や放浪者たちに細やかな視線を送り、彼/彼女らの生の陰影をじつに見事に浮かび上がらせている。この視線が<時代の気質>に向けられたとき、私たちの手許に残されたあれらのホッファーの諸著作が生まれたのだ、と独り感得する。 もちろんそんな風に事後的な納得したとてどうということはない。けれども、本書の中につぎのような言葉を認めるにいたっては、いよいよホッファーの思索がその生から湧き出でたものであることを確信せずにはいられないのであるし、そのような生を生きたホッファーの思索が時代の条件を超えていまもなお有効でありつづけることを理解できもするのである。少し長くなるが引いておきたい。 「障碍をものともしない驚嘆すべき道具としての衰えることのない構想力が、人間経験の本質をつぎつぎと抉り出す。どの行にも生が脈打つ。比類のない語り手たちの構想力が創造性を熱望し、同時に彼らの観察力を引き出す。注意に値しないものなど何一つない。動機も行動も物語も服装も習慣も数え切れないほどの細部も、きわめて鮮やかに描かれる。日常の現実に対する愛情が、隅から隅まで行き渡っている。善は悪とともに取り上げられる。完全を偽善的に示すものは何もない。どんな偉大な人間も欠点をもち、成功や美徳と同じくらい明確かつ詳密に描かれる。語り手たちによって構想された真実は、真実よりも生き生きとしており、真実よりも真実に近い」 これは旧約聖書を称えるホッファーの言葉だ。私はこの言葉をそのままホッファーの著作を称えるために使いたいと思うものである。
「……弱者の影響力に腐敗や退廃をもたらす害悪しか見ないニーチェやD.H.ローレンスのような人たちは重要な点を見過ごしている。/弱者が演じる特異な役割こそが、人類に独自性を与えているのだ。われわれは、人間の運命を形作るうえで弱者が支配的な役割を果たしているという事実を、自然的本能や生命に不可欠な衝動からの逸脱としてではなく、むしろ人間が自然から離れ、それを超えていく出発点、つまり退廃ではなく、創造の新秩序の発生として見なければならないのだ」
「ありふれた日々の出来事が歴史に光を当てることがあると知ったとき、私はこの上ない喜びを感じた。たぶん、書かれた歴史が抱える問題は、歴史家たちが古代の遺跡や古文書から過去への洞察を導き出し、現在の研究からは引き出していないということにあるのだろう。私が知る歴史家の中に、過去が現在を照らすというよりも、現在が過去を照らすのだという事実を受け入れる者はいない。大半の歴史家は、目の前で起きていることに興味を示さないのだ」
「慣れ親しむことは、生の刃先を鈍らせる。おそらくこの世界において永遠のよそ者であること、他の惑星からの訪問者であることが芸術家の証なのだろう」
いちいち註釈をつけるまでもない。これらの言葉はホッファーの生そのものであり、思索そのものである。ありふれた日々を異星人のように生き、<歴史>の波間に消えて行く出来事――自らもそこに立ち会う出来事――に視線を送り等身大の思索をすること。このような人物を特定のレッテルで表現することなど到底かなわぬことではあるが、それでも敢えていうなら、このような人物を哲学する人間というのではないか。 本書を読了した私は、眼の前の書物の山にいささかウンザリすると同時に、私が目下おかれている、私個人にとってはもはや無意味に過剰でしかない労働状態をことさら胡散臭く思うのであった。 2002年11月17日(日)追記:
上記の寸評に加筆・訂正を施して、こちらにも掲載した。
数日前のことである。Amazon に書籍を注文しようと思い立って同WEBサイトへ。トップページに「あなたにおすすめの本がある」と書いてある。以前からあった仕組みなのだろうけれど、その日まで、私は気づいていなかった。というより、たいていの場合、あらかじめ注文する本が決まっているので、わきめもふらずにそれを注文することにしか使っていなかったのだ Amazon を。 こういうおすすめの類でろくな目にあったことはない。ので、敬遠しようかと思うも一瞥しておこうとクリック。すると、そこには私が最後に購った何冊かの書物のリストが。そして、それらの本をどの程度気にいったかを教えてくれたら、あなたにおすすめの本を教えてやる、という次第。読みたい本くらい自分で探すわい、と思いつつも、ついそれらの書物の評価を(といってもたんなる好悪を5段階で問うだけなのだが)――マーケティングにロハで手を貸しているだな自分と知りつつ入力。するとたちどころに100冊の書物が表示されるではないか。って別に驚いているわけではない。どうやってそんなエエ加減な、と思ったのだ。 そうこう言いながらも自分、このリストを眺める。どうやら100冊の本にはそれぞれ「持っている」「興味がない」というボタンがついており、これを押したりすることによって、100冊のお勧め書籍リストがどんどん変動してゆくらしい。しようがないやつだな、と誰に言うでもなく既に敵方の術中にはまりつつある私は、最初のページに表示されている何冊かの書籍をすでに所蔵し読了したことを認めてつぎつぎと押したよ「持ってます」ボタン。それはもう押したさ。最後にこんなにマウスをクリックしたのはいつだったかというくらい押した。
最後に購った書物が偶々古典ギリシア関連の書物であったせいか、100冊には関連書が多数含まれていた。「持っている」ボタンをどんどん押す私。そのうち様子が変わってきた。なんだか哲学書が矢鱈と幅をきかせ、ついには100冊中の八割方をその類の書物に占領された模様。しかし負けずにクリックを続行。どんどんクリックする私。一冊の書物を「持っている」と処理するつど、リストには新たな一冊が加わる。ただ、その並び替えをどういった規則で行っているのかは定かでない。ただ、つぎつぎとリストが更新されてゆくのにあわせて、つぎつぎと既読書をのかす。プラトンがいなくなり、アリストテレス、デカルト、カント、スピノザ、ヘーゲル、マルクス、アウグスティヌス、エピクロス、ストア、キケロー、キルケゴール、ライプニッツ、ニーチェ、ハイデガー、フッサール、ウィトゲンシュタイン……西洋哲学の書物――それにしてもビッグネームばかりが表れるのには少し苦笑してしまうが――をどんどんのかしてゆくと、今度はどういう連鎖がはじまったのか、柄谷行人、浅田彰、中沢新一、蓮實重彦、福田和也といった名前があらわれ、そこからの連鎖であろう中上健次、エリック・ホッファー、岡崎乾二郎が……なおものかしつづけると、中上から文学領域へシフトがはじまったようで、にわかに文学者諸氏の氏名があらわれる。大江、三島、川端、太宰、芥川、森、夏目、安部、谷崎……同時に浅田からシフトしたと思しき芸術領域、蓮實からの連鎖である疑いが濃い映画の領域、中沢から宗教、どこかからボルヘス、エーコ、マルケスの一連の作品があらわれては消え、サリンジャー、ジョイス、カポーティ、ヘミングウェイ、カフカ、カミュ、ゲーテ、エリオット、ランボー、ボードレール、シェリー、オコナー、ディケンズ、バルザック、スタンダール、ドストエフスキー、トルストイ、ゴーゴリ、そしてどこかから高野文子、黒田硫黄ほか漫画の山脈が……と脈絡があるようなないような連鎖がつづき、ここまで来るとその他大勢はいつになったらリストにあらわれるのだと思いもするのだが、そうなると一体自分はなんのために無限クリック地獄にはまっているのか益々不明になるのである。気づけばのかした書物は500を越え(莫迦)、空が白み始め東京の空をカラスが。その辺りから徐々に気だるさが支配的となり、ついには諸行無常。この調子でクリックをつづけるとなると、お薦めの書物に出会うまでにあと数千回のクリックが必要であることに気づき萎える。そもそもが軽い揶揄の気持ちからはじめたのにもかかわらず、頭が真っ白になるまでマインスイーパー、上海、もしくはテトリス、なんでもよいが一人遊びのゲームに没頭するのと一般で、ルールがあり変化するものを目前に人間は――といって悪ければ私は――いくらでもはまれるのであるなあ、と感慨にふけりはしなかったが呆れもするのである。結局、本は一冊も注文せなんだ。あれあれ。
「ああ、きみきみ。そうきみきみ。そこのね、いやそっちじゃない、こっち。そこのね、ロシア文学の棚の本ね、そう、ちがう、セリーヌは、こら、ちがう金芝河はロシアじゃないでしょ、ショインカも違う、ふざけてるのかねきみは。そっち、そうそう、とっとっと、そこまで。そこまで。そこからそこまでの本をね、レジまで運んでください。え? すごい値段になりますよって、わかってるよそんなことくらい。書店員のいうことかねしかし。いいから運んで。そうそう落とさないようにね。え? なに? こんなに買って読めるんすか? ってあんたね、たかだか百冊くらいの本でつべこべ言わないの。読むに決まってるでしょ。自慢じゃないけどこっちも読まない本を買ってるほど裕福じゃないからね。あ、ほら、一番上のがこぼれるよ。買うまえに検討しなくていいんですかって? いいの検討したの見たのだいたいは。なに? でもこの本屋の棚じゃたいして揃ってないですよって、キミに言われたくないなぁそのセリフ。じゃあ揃えてよ、さあ、隣のフランス領とか中国領とか侵食するなり追い出すなり、新天地を求めるなりして……え? 物騒なことを言わないでください? って、本棚ってそういうもんでしょ、キミ、なんつうのかなあ、ちょっときどっていうならば地勢学的排列とでもいうかなあ、あるでしょ? 書棚におけるパワーポリティクスみたいな。資本増大至上主義VS高くても売れなくても善い本は善い教養主義みたいなさあ。まあなんだ、とどのつまりロシア文学=ソ連文学=ポスト・ソ連文学の書棚が拡充されてそれなりの本がそろえば私としても文句はないわけさ、こちとらイスラエルじゃないんだからねどうしてもそこじゃないとイヤだ、なんてこたぁ言わないんですからして、フランス領を侵さなくったっていいんですよ、ビルを一階増やしてそこを全面的にロシア・コーナーにするとかそういう解決手段でもさ。少しはナウカ株式会社のロシア部をみならって。あ、そうだよきみ、ここの一階を埋め尽くしている益体もない本を焼畑してやれば少しは……え? そういう一元的な価値づけはよろしくない? 言うじゃないの。でもさ、昨今そういう本はどこの書店に行ってもあるじゃない。だったら、そういう本はそういう書店にお任せしてさ、それでロシア文学に専念するってのはどうよ。え? だめ? キミは反ロシアかね。え? ちがう? じゃあなに? それは言えない。もったいつけなくたっていいじゃない。お、ありがとう、そこに置いて。そう、そう。え? 『僕は店員じゃない』? そういうことは早く言おうよ、きみさ。いやなにね、感謝はしてるよ。はいそっちはぽかんとしてないで、レジ打つすぐ打ついま打つ。え? 全部買うのかって? キミも失敬なヤツだな。間違えないようにね。キミらときどき書評新聞とか渡すと『これはお客さまのものなのでは……』なんて、まるでそれが本屋の商品じゃなみたいなこと言うけどさ、知ってるかい? あれも列記としたオタクの売り物なのよ。まっとうな書店員になりたかったら書評新聞くらいは読んだほうがいいよ。悪いことはいわない。え? 興味ない? あぁ、そう。」
妄想力の横溢といえば黒田硫黄氏もまた。 ★黒田硫黄『茄子2』(アフタヌーンKC、講談社、2002/05、ISBN=4-06-314295-7)
★大日本天狗党党本部‐黒田如何氏が作成・管理する漫画家黒田硫黄の支援を目的とした個人サイト。
思わずその妄想力に全幅の信頼を寄せたくなる作家がいる。町田康氏はそんな作家の一人。新著も妄想力が横溢している。爆発道祖神。爆発。 ★町田康『爆発道祖神』(角川書店、2002/07、Amazon.co.jp)
★橋本治『増補 浮上せよと活字は言う』(平凡社ライブラリー436、平凡社、2002/06) はなんとも、はや。昔単行本で読んだ―― ★野村雅昭『落語の言語学』(平凡社ライブラリー435、平凡社、2002/06) は何度読んでも勉強になる、などというとイヤらしいがこれホント。そうは言っても噺を聴くときにゃあ、そんなことすっかり忘れてしまいますがね。 ついでだから先月(6月)と今月(7月)の平凡社ライブラリーのラインナップをば。いい本ばかり。
★J.B.モラル『中世の政治思想』(柴田平三郎訳、平凡社ライブラリー434、2002/06)
★クシシトフ・ポミアン『増補 ヨーロッパとは何か――分裂と統合の1500年』(松村剛訳、西谷修解説、平凡社ライブラリー437、平凡社、2002/07) ★木下長宏『増補 中井正一――新しい「美学」の試み』(平凡社ライブラリー438、平凡社、2002/07) ★大塚康生『ジープが町にやってきた――終戦時14歳の画帖から』(平凡社ライブラリー439、平凡社、2002/07)
★『高山宏椀飯振舞I――エクスタシー』(松柏社、2002/06、Amazon.co.jp)
本書は、過去に発表された各種テキストを集成したもので、さながら古今東西から自分の趣味に適うものだけを集めて作られた私設博物館を訪れるような趣だ。訪問した客は主人じきじきにあれやこれやの陳列品の含蓄に富む解説で歓待をうける。はじめは主人のあまりの饒舌に圧倒されて、「はあ」「ほう」「左様ですか」などとつぶやいていたお客も、いつしか目の前でつむがれる言葉によって編み上げられるモノと言葉の連環網のおもしろさにひきこまれ、しまいには不躾にも主人の言葉をさえぎりさえもしつつ、「ではこれをさらに辿ってゆくとどこに行きますかな?」「いや、これは先ほど出てきたあれとつなげるとどういうことになりますでしょうか」「これはここよりあちらに並べた方が……」と、博物館の増築に手を貸す始末。 「それは何についての本か?」なンてことはこの際気にせず、それが小説なのかエッセイなのか論文なのか対談なのかなンて分類も気にせず、ともかくめくるめく言葉の海に飛び込みたいときには格好の一冊だ。この至福はどこからもたらされるのか? などという野暮な分析はまた別の機会にしよう。 第II巻(館?)の刊行も予告されている。 チャック・ベリーが以前どこかで「みんなおんなじ曲で自分でもどれがどれだかわからなくなる」と言っていたかいなかったか忘れたが、Oasisの新譜も相変わらず、なんで違うのかわからないほど同じではない曲が。
★Oasis, Heathen Chemistry(EICP-111、2002/06)
青山ブックセンターで開催された酒井直樹氏の講演「思想史を、複数のメディアの交差の場所へと解き放つこと」を聴講した。この講演は、このたび以文社から翻訳・刊行された『過去の声―― 一八世紀日本の言説における言語の地位』の刊行を記念して行われたものだ。およそ90分にわたる講演は、同書の主題が圧縮された形で反復される高密度なものであった。同書は著者の博士論文としてシカゴ大学に提出された Voices of the Past: Discourse on Language in Eighteenth-Century Japan (1983)をリライトして刊行された書物 Voices of the Past: The Status of Language in Eighteenth-Century Japanese Discourse (Cornell University Press, 1991)の邦訳書である。思想史を概念の発展を跡付けるだけのものから、(ただ概念だけに拠らない)複数のメディアが交差したであろう場所へと置き戻し考えてみたい、という酒井氏の今後の仕事にも注目したい。本書の内容については、近く書評の形で述べてみようと思う(『剣豪II』にうつつを抜かさなければ :-)。 閑話休題して。しばらく前に読んだ書物の寸評をひとつ。 ★箕輪成男『パピルスが伝えた文明――ギリシア・ローマの本屋たち』(出版ニュース社、2002/05、Amazon.co.jp)
単に怠惰のゆえにと言えばそれまでだが、古典ギリシア期の書物についてどのように流通していたのだろうと関心を持ちながら、ついぞ調べたことがなかった。 古典ギリシアの作品を読んでいると、ときおり本を購ったという描写に出会い当惑する。たとえばプラトンの作品のなかで、ソクラテスがアナクシマンドロスの本を購い読んでみたが期待はずれだったと述べる場面に出会う。また、ディオゲネス・ラエルティオスが愉快な書物『ギリシア哲学者列伝』で報告するところによれば、ストア派の鼻祖であるゼノンは書店の軒先でソクラテスに関する本を読んで哲学への道を歩みだしたのであった。こんな場面に行き会うとき、わたしたちはいったいどのような商人を思い浮かべ、どのような書物を想像すればよいだろうか。それはどんな体裁の本なのか。そのように当惑するのである。 本書は、出版の研究を重ねてきた箕輪氏がそうした疑問に答えようとするひとつの試みだ。関連史料がとぼしいテーマであるらしく、記述には多くの推測や仮説が含まれている。しかしながら、著者が描き出すギリシア、ローマにおける書物をめぐる世界は、ギリシア人たちのそっけない言及に豊かな彩りを添える一助となるだろう。さらなる類書の出現を待つ。 さらに閑話休題して。 『10+1』は住宅を特集。 ★『10+1』No.28「特集=現代住宅の条件」(INAX出版、2002/06)
2002年11月14日(木)追記:
★酒井直樹『過去の声――十八世紀日本の言説における言語の地位』(以文社、2002/06、Amazon.co.jp)
昼さがりの街はバーゲンセールスの熱気につつまれている。それでもワールドカップ決勝戦の影響か夕方には人気が少なくなったようだ。それにしても渋谷の BOOK1st はいつ行っても汚い。通りの汚れがそのまま店内に侵入してしまったかのようだ。とりわけエスカレーターの汚さといったら。得たいの知れない液体の飛沫が床や壁にそのまま模様になっているのが散見される。映画館やレコード店その他に寄る都合上、渋谷に出た折には立ち寄るものの、他の書店で用が済むならそれに越したことはない、と思いつつ渋谷界隈の他店もいまひとつふるわない。全部がヴィレッジバンガードになる必要はないけれども、も少し店構えに面白みを出してほしいものだなどとは言うだけ野暮か。その前にエスカレーターを掃除しようね、うんうん。
★フィリップ・ラクー=ラバルト+ジャン=リュック・ナンシー『ナチ神話』(守中高明訳、松籟社、2002/07)
★ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『ヴィーナスを開く――裸体、夢、残酷』(宮下志朗+森元庸介訳、白水社、2002/07) しばらく前に書いて忘れていた―― ★小泉文夫+團伊玖磨『日本音楽の再発見』(平凡社ライブラリー、2001/11)
近頃手にした書物から。
★アレクサンダー・ガルシア・デュットマン『友愛と敵対――絶対的なものの政治学』(大竹弘二+清水一浩訳、月曜社、2002/06)
★ジャン=リュック・ナンシー+ジャン=クリストフ・バイイ『共出現』(大西雅一郎+松下彩子訳、松籟社、2002/07)
★ジャック・ラカン『精神分析の倫理』(上下巻、小出浩之+鈴木國文+保科正章+菅原誠一訳、岩波書店、2002/06)
★酒井直樹『過去の声――十八世紀日本の言説における言語の地位』(酒井直樹監訳、川田潤+齋藤一+末廣幹+野口良平+浜邦彦訳、以文社、2002/06)
★ピエール・ブーレーズ『標柱――音楽思考の道しるべ』(笠羽映子訳、青土社、2002/06)
ここで触れておきたいのは、先日06月21日に刊行された―― ★新清士『侍はこうして作られた――アクワイア制作2課の660日戦争』(新紀元社、2002/06、Amazon.co.jp) という書物である。
だから本書を読むときには、この残り日数を気にとめながら読むのがいい。とくにディレクターの中西氏が、思い描くゲームを模索しながらも、その思い描かれたものを他のメンバーに伝えあぐねつつ、それでも期日は迫り制作は進むといった状況は、開発の経験がない読者でもはらはらするのではないか。ゲームの根幹が定まらないままそんなに制作が進められてよいものか? そう思うかもしれない。商品として「完成」したゲームを目の前に置き、あるまとまった作品に触れる者の事後的な視点からは、奇異なことに感じられもするだろう。しかし、とりわけ前例がないような作品――とはつまり、「この要素をこのように組みたてておけばとりあえずはおもしろくなりうるはずだ」という作業仮説が立てづらい作品――では、どのようなゲームに仕立て上げるかという模索自体が制作の過程であることが少なくない。実際、本書の報告によれば中西氏が当初目指していたゲームは、ゲーム企画者なら一度は夢想するような自由度のある世界、ゲーム中の他者が自律的に生きているような世界とそこでのゲーム体験をめざしたものだった。プレイヤー以外の登場人物がそれぞれの思考と感情を持って行動する世界。その世界にプレイヤーが働きかけることによって、世界の様相が変化する、それも予め定められたことだけが起こるのではなく、人と人の間に出来事が生じるようにしてなにかが起こる、そんな世界(とは、もちろん本書からうかがえる中西氏の考えを勝手に敷衍しているだけなのだが :-)。 だがそんなゲームを作ることが極度に困難であることもまた、このことを一度は真剣に検討してみたことのあるゲーム企画者なら痛感しているだろう。そのうえでいくつかの方途がないわけではない。かの『シェンムー』(SEGA、1999、2001)は、きわめてまっとうに(?)この課題に取り組み、膨大な分岐を用意した。また、近年多くのプレイヤーを獲得しているネットワークRPGでは、人間同士をプレイさせることによって「自律して行動する他者」をプログラムせずに実現している(かつてテーブルを囲んで人間同士でプレイされたテーブルトークRPGをネットワークを介してプレイしているようなものだ)。しかし先に述べた「理想」では、あらかじめ膨大な分岐を用意するのでもなく、人間同士が互いに「他者」となるのでもなく、一人のプレイヤーがソフトウェアの中に他者を感じる仕組みを目指したものだ、と言うことができる。 本書を通読すればわかるように、そして実際『侍』をプレイすればわかるように、最終的には『侍』もまた、あらかじめ用意された分岐によって構成されている。結果的にプレイしておもしろく、20万本を越えるセールスを実現したのであれば、本作を成功ということは問題ない。だが、本書によってうかがえるゲームの着想と比較したとき、できあがったゲームを成功作と言いきれるだろうか。 もちろん、成功したか/失敗したか、という下世話な判定を下したいのではない。想像された作品と実現された作品の間にあるギャップ。本書を読む私たちはこのギャップについて考えてみたいのだ。いや、すでにこのように考えること自体、作り手の関心にすぎず、プレイするだけの読者には無用の詮索であるかもしれない。しかし、本書を読むおもしろさの大部分は、目指したものと出来上がったもののギャップとそのギャップの生成過程を明確に記録しているところにあるとも思う。実現されなかった意図は虚しいが、なぜ実現されなかったのかを(こう言ってよければ失敗について)考えることからはさらなる創造が生まれるだろう。 本書の魅力は、当事者が同じことを書こうとすれば書かれずに終わってしまうであろうことが、よいことも悪いことも含めて第三者の目から描かれていることだ。ゲームの制作にさいして実際に行われたこと、起こった出来事の総体からすれば、本書の287頁はじつに小さなものだ。けれども、開発の経験も持っているという著者は、現場で発生した出来事を的確にとらえて報告している。――かどうかは実のところわからないわけだが(笑)、本書を読みながら私ははからずも自分が携わってきたタイトルでの苦境をありありと想起した。 ともあれ。類書が少ないだけに貴重な試みである。ゲームに関心がある向きには、という限定をつけざるを得ないのだが一読を薦めたい。 著者のWEBサイトは下記。
古典ギリシアの諸作品を読んでいると、こんなに面白いものがあるならしばらく他の本は要らないや、という気分になることがある。叙事詩、抒情詩、悲劇、喜劇、物語、弁論、歴史、地理、哲学、医学、天文学、博物誌、戦記、綺譚、書簡、恋愛論、数学、農業、釣魚、伝記……。先般までこの豊かな作品群に対して、わたしたちはさほど多くの翻訳を持っていなかった。それで入手できる邦訳書をあらかた読んでしまった後は、仕方なく(?)LOEB CLASSICAL LIBRARY などの対訳書にあたり、さらにはたどたどしく原典をひもとくことになるわけだが、研究者でもない好事家にとって単に享楽のための読書の代価としては甚だ荷の重いことではあった。 1997年06月に福音は訪れた。京都大学学術出版会から『西洋古典叢書』の刊行が開始されたのだ。これはギリシア、ローマの古典諸作品を原典からの完訳で提供しようという叢書で、第I期15冊の配本終了後に配布された小冊子『西洋古典叢書がわかる』(京都大学学術出版会、1999)によれば、とりあえずは300冊に及ぼうかという作品の翻訳刊行が予定されており、さらにそこに掲げられている書目に尽きるものではない、とも言われている。快挙というべき事業である。 はじめに予定された第I期の15冊は順調に、ほぼ月刊のペースで刊行された。書目はつぎのとおりである。
★プルタルコス『モラリア14』 2000年05月から第II期全31巻の刊行がはじまった。今期もほぼ月刊で刊行が続き読む側としてはうれしい悲鳴をあげるばかりだ。目下刊行された書目は以下のとおり。
★トゥキュディデス『歴史1』 当面予定されているおよそ300冊に対して、目下36冊が既刊。気の長い事業ではある。が、私のような怠け者にとってはそれだけ享楽が長続きするということでもある。引き続きたのしみたいと思う。
同じくギリシア・ローマの諸作品から未訳作品を選んで刊行中の「叢書アレクサンドリア図書館」(国文社)も全12巻の予定に対して、目下11巻を刊行している。こちらも刮目したい。
用事で新宿に出たついでに書店に立ち寄る。用事などなくても書店には立ち寄る〔A〕のだが、今日は用事のついでに立ち寄った〔B〕。一見些細な違いだが、AとBにはたいへんな違いがある。それは外出するスタイルにかかわっている。ほとんど手ぶらで家を出るのか、携帯する種々の道具をすべて鞄にいれて持ち歩くのか。今日はBであって、書店のドアをくぐったとき私はすでに紙くずやらCDやらヴィデオやらで一杯になったダレス・バッグをさげていた。 世の中で何が重たいといって書物より重たい買物はない。いや、本より重たい買物はいくらでもあるけれども、入手した後にそれを帰宅するまで持ち運ぶという意味でこんなに重たいものもない。いや、いくらでもあるはずだがたいていの場合、ものぐさな私はそんなに重たいものは運送を依頼して手ぶらを決めこむ(勿論空いた手で何をするかは決まっている)。そんなわけで身勝手な言い分だが書物以上に重たいものはないのだ。 もちろん一冊の本が重たいと言いたいのではない。中にはそういう本もある。大きな事典や写真集、画集、プログラム言語のテキストの類、あるいは国立国会図書館の書庫にしまわれている人間の背丈ほどもある本……(課題:あなたの家にあるもっとも重い本がどれであるかを特定して重さを計量してみること)。そういう書物を入手するさいは、よほど気分が高揚するなどして自分の体力を省みないような状態でないかぎりはそれ一冊のみを購って大人しくしているか、やはりものぐさ精神を発揮して運送を依頼する。厄介なのは、複数の書店をめぐり気づけば鞄や風呂敷が歩くのもいやになるような重さになっていることに気づいたときだ。気づかなければよい。鼻歌でも歌いながら背筋をしゃんとしてそのまま帰宅すればいいのだから。問題は気づいてしまったときだ。そもそもそんな機動性に欠く状態では書店はおろか映画館やカフェに出入りするのも難渋する。ゆったりとした座席の映画館、テーブルとテーブルの間が十分に離れたカフェなどがあればよいのだが、なかなかおめにかからない(ロッキングチェアーに揺られながらゆっくり読書することができる喫茶店や天井が高く空間にゆとりのある造りのカフェがないわけではないのだが、私の行動範囲にあったそれらはここ数年のうちになくなったりスピードが売り物のチェーン店にとってかわられたりしているのだ)。 そのような不体裁はさっさと手近の宅急便取り扱い店などに赴いて解決してしまうに限るのだが、いま読みたいすぐ必要な本はそうするわけにもゆかない。あるいは家を空けることが多いので宅急便はかえって非効率でもある。とそれらしい理由を掲げているものの、もしそのようにして手を空けてみても手が空いているのは時間の問題でしかない、というのが本当のところだ(あらまあ)。 そんなわけでこと書物に限っては入手したらば重くてもそれを自分で持ち運ぶことになり、なにが重いといってこれほど重い携帯荷物もない次第。この「重量としての書物」というトピックについてはまだまだ書くべきことはあるのだが、書き手の気分次第という本稿の仕組み上、書き手の気分が余所へ向かいつつあるここで一旦筆を置かねばならない。 最後に新刊案内もかねて――って言っても誰に案内するのだという話もありますが―― ★中沢新一『人類最古の哲学――カイエ・ソバージュ1』(講談社選書メチエ231、講談社、2002/01) ★中野重治『中野重治は語る』(平凡社ライブラリー420、平凡社、2002/01) ★山田宏一『増補 トリュフォー、ある映画的人生』(松下裕編、平凡社ライブラリー422、平凡社、2002/01)
★J.G.メルキオール『現代フランス思想とは何か――レヴィ=ストロース、バルト、デリダへの批判的アプローチ』(財津理+荻原真訳、河出書房新社、2002/01)
★M.メルロ=ポンティ『言語の現象学』(メルロ=ポンティ・コレクション、木田元編、木田元+滝浦静雄+竹内芳郎訳、みすず書房、2002/01) みすず書房といえば、近頃は興味深い書物が目白押しで読むほうが一向に追いつかない。すぐにでも手にしてしばらくそれだけに耽溺したい作品が一山。そうこうするうちに新しいものがその上に積まれて行く。みなさんは既に読まれただろうか。山からアトランダムに何冊かを――。
★K.オプホルツァー『W氏との対話――フロイトの一患者の生涯』(馬場謙一+高砂美樹訳、2001/09)
★R.パワーズ『ガラテイア2.2』(若島正訳、2001/12)
★N.グッドマン+C.Z.エルギン『記号主義――哲学の新たな構想』(菅野盾樹訳、2001/10)
★S.レイ編『わたしは邪魔された――ニコラス・レイ映画講義録』(加藤幹郎+藤井仁子訳、2001/12)
★『ファン・ゴッホの手紙』(二見史郎編訳+圀府寺司訳、2001/11)
★R.ペンローズ『心の影1――意識をめぐる未知の科学を探る』(林一訳、2001/12)
――って適当に選んだだけでも相当おもしろそうでしょ? みすず書房だけでこの有様。他出版社あるいは他国の出版社も考慮にいれたらそれは時間がいくらあっても足りないわけです。って、こんなことしている間に読めばいいのか。しまった。
『蘭学の時代』(中公新書、1980/12)、『インターネット社会論』(岩波書店、1996/02)などで知られる赤木昭夫氏の新著―― ★赤木昭夫『自壊するアメリカ』(ちくま新書326、筑摩書房、2001/10) は、2001/09/11の同時多発テロ事件を契機にはじまったアメリカの軍事行動とそれに応じる諸国の動向を、国際政治・経済の力学から読み解こうとする一書。「なぜWTCビルがねらわれたか」「そのとき大統領は何をしたか」「世界恐慌は避けられるか」「なぜ首脳はワシントンへ詣でたか」「なぜロシアはアメリカにすりよるか」「『日の丸を示せ』と誰が言ったか」「アフガニスタンはどうなるか」「アメリカはどの道を選ぶか」――という構成。本書の全体を貫く「自戒しなければ自壊するアメリカ」という観点から、アメリカのアドホックな自国利益優先の政治手法を分析しつつ批判している。この辺のことについて頭を整理してみたい読者にはうってつけだ。 その赤木昭夫氏が2001年09月に上梓した翻訳書――
★ルイジ・ルカ・キャヴァリ=スフォルツア『文化インフォマティックス――遺伝子・人種・言語』(赤木昭夫訳、産業図書、2001/09) も興味深い一冊。人類の集団がどのように諸大陸へひろがっていったか。キャヴァリ=スフォルツアはこのことを遺伝子の人口動態とでもいうべき統計的分析手法によって推定する。本書の重要な帰結のひとつは、いわゆる人種偏見の不当性を遺伝子の見地から確認する点である。また考察は人口の動態にとどまらず、農耕技術の伝播、言語の分化の過程などを辿り、人類の文化にまで及ぶ。遺伝人類学、文化人類学、考古学、言語学、技術史など既存の学問分野を広く横断するその手つきは実に刺激的だ。 訳者によれば本書は、1000頁を越える大著―― ★L.Luca Cavalli-Sforza + Paolo Menozzi + Alberto Piazza, The History and Geography of Human Genes(Princeton University Press, 1994) を一般読者向けにつくりなおした書物とのこと。 余談になるが――って、もともと余談なんですが(笑)――赤木昭夫氏は『文化インフォマティックス』のほかにも産業図書から――
★スティルマン・ドレイク『ガリレオの思考をたどる』(1993/03)
★ウィリアム・H.デイヴィス『パースの認識論』(1990/11) といった翻訳書も刊行している。 氏の『蘭学の時代』はとてもいい本なんですが、なぜか復刊のきざしがないのですよね。 2002年06月30日(日)追記: その後の赤木昭夫氏の仕事をフォロウしておこう。 ★赤木昭夫+槌屋治紀『技術の分析と創造』(放送大学教育振興会、2002/03) ★フィリップ・ボール『生命を見る――分子と生命の化学』【翻訳】(赤木昭夫訳、産業図書、2002/04)
各種文芸雑誌が揃うのが月はじめの6、7日。『文學界』『群像』『すばる』『新潮』『文藝』は毎度入手するものの、次号までに読了した試しがない。いっそ全誌とも合併して、小説の本数を減らして(厳選して)、読み応えのある書評や各方面の批評を増やしてくれたら読む方も気合がはいるのに、などと勝手なことを思う。
週のはじめは『TLS』の封をきるのがたのしみだ。
当初の目論みでは、この「作品の愉悦」というサイトには形態やジャンルを問わずあれこれの作品について比較的きっちりと情報を集積しようと考えていたのだが、そういうことは「哲学の劇場」の方でやることにした。ここではもそっとゆるゆると(だらだらと、とも言う)したスタイルで書いてみようと思いなおした次第。 気がつけば―― ★日本哲学史フォーラム編『日本の哲学』第2号「特集=構想力/想像力」(昭和堂、2001/12) が発行されている。第1号「特集=西田哲学研究の現在」の刊行が2000年11月だから、およそ一年ぶりの刊行だ。もしかして年刊誌なのだろうか。ことのついでに目次情報を作成してみた。西田といえば、岩波書店の新刊案内誌に新しい『西田幾多郎全集』の刊行予告が出ていた。 この巻だけ品切れになって入手しそびれていた―― ★『新約聖書V パウロの名による書簡/公同書簡/ヨハネの黙示録』(保坂高殿+小林稔+小河陽訳、岩波書店、1996/02) を新刊書店で入手。これで読むたび図書館から借りる必要がなくなった。
★Sherlock, Jr.(1924) を観る。上映中の映画のスクリーンに入りこむシーンは何度観ても心踊る。作品のDVDへの移植も進んでいる昨今、ひさかたぶりにキートン特集でも催そうかしら(要するに個人的にキートン作品を集中的に回顧するということです)。
⇒PARADISE FOR KEATON‐プロフィール、フィルモグラフィー、関連書、ヴィデオ情報など。
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