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| 作品の愉悦――2003年01月‐03月 |
――という例によって益体もないことを考えたのは、最近、自画像に関するニ冊の本を読んだからだ。というとあたかも、「私がつまらないことを考えつくのはこの本の所為だ」と責任を転嫁しているようだが、そうではない。 与太はともかく。その二冊とは―― ★三浦篤編『自画像の美術史』(東京大学出版会、2003/03、Amazon.co.jp) ★田中英道『画家と自画像――描かれた西洋の精神』(講談社学術文庫1585、講談社、2003/03; 日本経済新聞社、1983/03、Amazon.co.jp) である。前者は、「自画像」をテーマに、五人の論者が論考を寄せた論文集で、次のような構成。
・「西洋絵画と自画像――そのタイプと歴史について」三浦篤 各論考は小さなもので、読み応えという点では不満がなくもないけれど、自画像についての多角的な議論を参照できるという意味では、便利な一冊だ。西洋の自画像史と日本の自画像史が一冊のなかで扱われているので、比較検討がしやすいのがよい。 後者は、およそ二十年前に刊行された書物の文庫化したもの。自画像の発生以前を視野におさめつつ、十五世紀から現代までの西洋美術史における自画像の変遷を辿っている。事実としてどのような作品が描かれたのか、またそれらの作品はどのように解釈されうるのか、を知るためには格好の好著だ。――と、なんだか煮え切らない意見を書いているのは、各作家、各作品に対する著者の解釈にとまどいを覚えているからだ。たとえば、レンブラントとゴッホの自画像を比較しながら、著者はこのように言う。 「それらの〔ゴッホの――八雲註〕自画像をレンブラントのそれと比べると、ひとつの類型性といったもの、すでに描かれる対象となったものとしての自画像であると感じられる。確かに一点一点自己の心象を表現しようと思ったのかもしれない。しかしレンブラントにはその形象から人間へと向かっていくことができるのだが、ゴッホは人間に向かう前の色と形、線に魅了されてそこで止まってしまう」(田中英道『画家と自画像――描かれた西洋の精神』、p.236) これは本当だろうか? この引用箇所に続いて田中氏は傍証めいたことを記してもいるのだが、疑念は解消できなかった。といってもこれは田中氏の問題というよりは、そもそも自画像について何かを述べることにつきまとう困難の問題であるように思う。わたしたちはいまもって人間の表情・顔貌を記述する術を十分に開発していないのではないか。もっと言ってしまえば、他者の相貌からその内に想定される精神や心を記述する言葉をもちあわせていないのではないか。そんなことをいえば、ことは自画像に限らないじゃないか。たしかに。たしかにそうなのだが、自画像がことさらやっかいなのは、自画像は描いた本人にとっては自画像であるけれども、それを眺める他人にとっては他画像でしかない、という当たり前の事実のせいでもある。 自画像を描く者にとって「私が鏡に映った私を見て描いた絵画としての私を私は見た」という自画像特有の事態は、描かれた自画像を観る他人にとっては「彼が鏡に映った彼を見て描いた絵画としての彼を私は見た」という風に変形されざるを得ない。自画像が自画であるのは画家本人にとってのことであり、他者にとっては他人の自画像であるにすぎない。
なんだ、そんなことか。そんなことなのだが、ここに自画像を論じる難しさがあるように思う。自画像には、画家の内面が、他の対象を描いた作品の場合よりも、より多くよりよく表出されている、と考えてみたくなる。なにしろ画家本人が自分を描いた作品なのだから。しかし、その作品を眺める私にとって、画家の自画像は他画像にすぎない。だから、他人の自画像に、ある内面を読み取ったとしても、それは他の対照を描いた作品からなにかを読み取る場合と同様に、むしろその読解は、読解者が他者を理解する仕方のあらわれであるほかはない。そもそも他人の表情からその内面が「正しく」読み取れるのなら、誰も人間関係で苦労はしないだろうし、それをことさら解釈する必要も霧散する。では、他の肖像画とはどこか異なるものであるように感じられる自画像に、どう接したらよいのか。もちろん、美術史家や美術批評家たちはそうした困難を前提に議論しているのだと思うのだが、なかなかそうした問題意識を十分に検討している議論につきあたらない。こういう場合は、むしろ哲学者たちの言葉に耳を傾けるべきだろうか。え? 自分で考えろですって? はは、まったくです。
「東 (中略)少なくとも僕の知るかぎり、小谷さんを貴重な例外として、カルチュラル・スタディーズの研究者は、ほとんどオタクに関心をもたない。その結果、いまだにオタクに関する言説は、オタクというのは性的に保守的で、家父長制的で、成人女性と結婚できないからロリコンマンガを描く、みたいなステレオタイプに押し込められている。オタクの性の空間がどういう風に編成されていて、それが現在の社会環境とどのように繋がっているのか、多少理論的な説明を与えてくれるものは、実は斎藤さんの本が出るまでほとんどなかったんですね。これは僕はたいへんな損失だと思う。やおいも含め、広く「オタク系」と括られる人々は全国に数十万人の規模でいるわけで、これは日本のサブカルチャーのグループとしてはおそらくもっとも大きい。ところがこの集団は、サブカルチャーというかカウンターカルチャーとして自己規定していない、どころかそういう自己規定を積極的に忌避しているので、まともな研究の対象にならない。」(東浩紀×斎藤環×小谷真理 鼎談「ポストモダン・オタク・セクシュアリティ」、前掲書、p.207) この発言に対して小谷氏が「いいじゃない、それならそれで」と応答していて、読みながら思わず頷いてしまう。それに対して東氏は、「オタクなんて消滅するかもしれない。(中略)これだけ巨大なサブカルチャーの遺産に対するちゃんとした分析的言説がないのは、後世とてもまずいことになると思う」と答えている。それもまた然り。人間の生のあり方のヴァリエーションとして、オタク的な在り方が、より適切に記述されるに越したことはない。人間がなにをしているか、社会になにが起きているかを記述するのも学問のひとつの仕事であるなら、オタクが対象であってもいい。 個人的には、現代人の趣味がどうなっているのか、というより広い文脈のなかで、オタク的なものがどういう位置付けをもっているのか、そういう観点による趣味研究があらわれないかと期待をしている。というのも、そのような文脈を踏まえないことには、オタクのオタクたる所以がぼやけたままになってしまうし、そもそも目下の日本において何がメインカルチャーでなにがサブカルチャーあるいはカウンターカルチャーなのか。そもそもカウンターカルチャーといえるものがあるのか(つまり誰かが何らかのカルチャーに対抗しようとしているのか?)。もっと言えば、メイン/サブ(主従)というくくり自体が有効なのか――という疑問があるからだ。一度、この辺りから議論を整理しなおしたほうがよいように思う。 本書のなかではこの点について最も自覚的な論者である伊藤剛氏の今後の仕事に刮目してみたい。 最後になったが、本書の構成について。成り立ちについては、下記サイトなどをご覧あれ。構成は以下のとおり。
★『網状言論F改』(東浩紀編著、青土社、Amazon.co.jp)
★網状言論F‐本書の元となったイヴェント。
サイコメトリーという超能力は、物品からその物品の持ち主の経験をたぐりよせる能力のことだが、他人の部屋を見る愉悦は、その部屋を媒介にしていわば空想的にサイコメトリーを行うたのしみとでも言うべきものだ。 こういう愉しみを味わおうという場合、『ELLE DECO』に掲載されるような洗練されて片付いた部屋よりも、本書『TOKYO STYLE』(京都書院、1993; ちくま文庫つ9-3、2003/03、Amazon.co.jp)に掲載されている部屋のほうがふさわしい。 本書は、1990年代初頭の東京の居住空間たちを、生活臭もそのままに――ただし住人は写していない――フレームにおさめた写真集だ。 寝乱れたままの布団や、食べかけのパン、本やレコードやヴィデオのコレクション、什器や壁にはられたポスター。狭いながらも居場所から手を伸ばせばなんでも用が足りそうな部屋。どの部屋にも住人が生活するなかで編成されてきた秩序が覗われてそれがおもしろい。他人にはまったくの無秩序に見える空間も、居慣れた人なりの秩序がある。 私は似非サイコメトリー(妄想)能力を最大限にはたらかせながら、時間を忘れてあれこれの部屋を訪問する。もうすこしズームしたい、とか思いながら(これについては、後述のリンク先で擬似的に再現している。だが、欲を言えばただみまわせるだけではなく、部屋の内部をコンピュータ上の3Dモデルに変換し、かつズームしても画像がぼやけない処理を施せば、まさに観まわし歩き回れるのだが。それこそ3Dゲームでやっているように)。この愉悦はなんなのか。たんなる覗き趣味といえばそれまでだが、見知らぬ空間に身をおいたときに受ける刺激がこの愉悦の主要な要素なのではないかと思う。それも人工物と記号が満載で、自然の風景に向かい合うのとはまた異なる可読性が高い空間であることもポイントか。それこそ書棚などは、並んでいる書名から読書傾向が想像できて愉快である。 ここはひとつ、私もおよばずながら「TOKYO STYLE」の一例をお見せして当サイトの読者諸子に愉悦を提供しよう、とデジカメで部屋を撮影しはじめたのはよかったのだが、そうするうちに「あれ、あの本はそこにあったのか」と思わぬ発見をしたり、読みふけったり。まずは片付けるのが人として先決であることに気づいた次第。 同じ趣旨の写真集として以下の作品をあげておきたい。 ★都築響一『賃貸の宇宙』(筑摩書房、2001/12、Amazon.co.jp)
★伊藤ガビン『魔窟ちゃん訪問』(アスペクト、1995/09、現在品切れ) また、次のサイトで都築氏の作品を閲覧できる。
★Internet Museum of Art‐都築響一氏がキュレータをつとめるネット美術館。
読了した勢いで書評を草した。⇒こちら
本書は、こういう小説を書いてみたい読者に、小説の書き方を教えるテキストブックである。本書の大塚英志氏は『物語の体操――みるみる小説が書ける6つのレッスン』(朝日新聞社、2000/11、Amazon.co.jp)同様に、徹底した先生ぶりを発揮しており、読者が挫折しないよう、じつに懇切丁寧に講義を進める。そこで説明されているのは、まさにキャラクターを中心にすえる小説の作り方であり、おそらくここで説かれている方法は、小説だけではなく、ゲームやアニメ、マンガなどの物語を構築するためにも有用であると思われる。もっとも、どんな物語を構築できるかは、それぞれの読者が摂取してきた過去の作品の質と量に大きく左右されるであろうから、その点については別途トレーニングを積む必要があるだろう。 他方で、冒頭にも少しだけ書いたように、この講義はキャラクター小説の書き方を教えるという体裁をとおして、架空の人物を登場させることで成立する文学作品、とりわけ「私」というキャラクターを立てて論述される「私小説」に対する一種の批判としても機能するように書かれている。 「花袋以降の「私小説」は、そして、大抵の近代文学は今日に至るまで「文学」の中に「私」と記せば、そこに「私」があたかもあるように「私」が現れる、その「言文一致」という新しい文字のためのことばがもたらした仕組みの成り立ちについてすっかり忘れてしまったかのようです」(p.302)
たしかに、と首肯しつつ、しかしその仕組みに無自覚なままで作品を書こうとしている作家などいるのだろうか、とも思うのであった。
今日のファンタジー物語の源流はどこにあるか。エッダやジークフリート伝説といった北欧の伝承を素材に構築された長大な作品、J.R.R.トールキンの『指輪物語』(The Lord of the Rings, 1936-1955)とそれに先立つ『ホビットの冒険』(1937)はそのひとつと考えることができる。 事実、これらの作品に多大な影響をうけて作られたRPG(Role Playing Game)――たとえば『Dungeons and Dragons』――のルールブックを読むとそのことがよくわかる。登場する種族、武器や魔法、モンスター、社会などの設定はトールキンのファンタジー小説の設定資料集の趣さえある(もちろんそれだけではないが)。昨今では、RPGといえばヴィデオゲームの方がよく知られているかもしれないが、それらの多くは、『Dungeons and Dragons』ほかの、RPG(コンピュータによるRPGと区別するために、Tabletalk RPG とも呼ぶ)を参照している。 ファンタジー物語の典型的なパターンは、登場人物たちがパーティーを組んで、冒険の旅に出るという筋だ。冒険の目的はいろいろだが、魔境にある財宝を手にいれるとか、悪の勢力と闘うとか、奪われた姫を助け出すなどやはりいくつかのパターンがある。
主人公のイアソンと彼を支える仲間(英雄)たちはパーティーを組んで、コルキスにあるという金の羊毛を求めてアルゴ号で冒険する。行く手をはばむ障害と助力――英雄に試練を与える王、たちはだかる魔物たち、不思議な力をもつ小道具、魔法を操りイアソンを助ける王の娘メディア、宝を護るドラゴン、メディアとイアソンの恋……とあげてゆけばきりがないが、この物語には宝探しと恋と闘いというモチーフがしっかり揃っていて、まるでファンタジー物語の多くが『アルゴナウティカ』をお手本にしているのではないか、と思えるほどだ。 といっても、そういう目で起源探しをすれば、もっといろいろあろうかとは思いますが。古典ギリシアの作品を読んでいると、時代がうつろっても人間あんまり変わり映えしてないのかしら、などと不遜なことを思ったりして。 ここに書影を引用したアポロニオスによるアルゴ船物語は、紀元前3世紀頃に書かれた叙事詩。伝存する作品としては、ピンダロスによる『ピュティア第四祝勝歌』(『祝勝歌/断片選』、内田次信訳、西洋古典叢書G021、京都大学学術出版会、2001/09、Amazon.co.jp、所収)などもある。ドン・チャフィ監督作品『アルゴ探検隊の大冒険』(Jason and the Argonauts、1963、Amazon.co.jp)も悪くないが、主人公イアソンを「ジェイソン」(英語風発音)と呼ぶのはいただけない。 無事故郷に帰ったイアソンのその後については、エウリピデスの『メディア』に描かれているが、こちらはこちらでまた「いつの世も男ってやつは」という内容。マリア・カラスがメディアを演じたパゾリーニの監督作品『王女メディア』(Medea、1970、Amazon.co.jp)もこのさいは見なおしておきたい。ちかごろパゾリーニ作品のDVD化も進んでいる模様。『テオレマ』のDVD化希望。 ★アポロニオス『アルゴナウティカ――アルゴ船物語』(岡道男訳、講談社文芸文庫アB1、講談社、1997/08、Amazon.co.jp)
1)「なに、クローン人間? そんなの出来たら、俺もパーマンのコピーロボットみたいにクローンを会社(学校)に行かせて別のことするね」 と思ったあなた。 2)「え? クローン人間? だめだめ、絶対だめ、よくわからないけど危険だからダーメ!」 と拒否反応を示すあなた。 3)「クローン人間なんて、科学の最前線の話だろ。私には関係ありませんね」 と流そうとしているあなた。 以上のいずれかに該当する方は、残りの人生において余計な妄想や過度の心配、いざというときの応接に困らなくてすむように、本書の通読をおすすめする。本書は、クローン技術とその運用上の倫理的な問題を平明に整理した好著だ。科学・哲学についての予備知識がなくとも読めるよう工夫されている。 賛成するにせよ、反対するにせよ、他人事として流すにせよ、一端はここに示されている議論を自分の頭で吟味しておく必要がある。というのも、こうした科学技術はあなたや私が好むと好まざるとにかかわらず、あなたや私の「生の条件」を構成する一要素なのだから。今後、このトピックスに関する話題はますます増えてゆくと思われる。そのとき、インチキな議論に翻弄されないだけの耐性をつけるためにも眺めておきたい一冊だ。 とはいえ、本書も示唆しているように、技術にまつわる倫理の問題は、結局のところ技術そのものというよりも、それをいかに使うのか、により多くはかかっている。 ところで。本書の表紙に引用されているのは、ラファエッロの『サン・シストの聖母』の部分だ。この絵は引用されている部分の外側、聖母の左右に聖シックストゥスと聖女バルバラが位置し、聖母の足許の下方には、二人の天使が「おい、あそこにカーテンなんか描いたのは誰だろうね」「うん、もうちょっと気のきいたものを描けばいいのにね」などと会話している風情(この二人、時折絵葉書などに流用されていますね)で上を見上げている。本書の表紙に使われているのは、この絵の中央やや上方に位置する幼子を抱きかかえるマリアの全身を含む部分。 私が、気になったのは、マリアの頭の上のほうの背景に描かれたたくさんの顔だ。この絵には何度か(複製で)お目にかかっているにもかかわらず、不覚にもいままで気づかなかったのだが、マリアの背後に多数の顔がある。これは誰か? イエスを祝福する天使たちか? それにしてはみな浮かない表情だし、天使ならマリアの足下にいる。もしこれが聖書を題材にした宗教画である、という文脈を無視してこれが何に見えるか、とみなにきいてまわったならば、一番近いのは心霊写真だろう。そうか、これは亡霊たちだ。誰の? 救世主の出現をおそれたヘロデ王に虐殺された幼児たちか? ヘロデ王はベツレヘムとその周辺にいた2歳以下の男児を皆殺しにしたのであった。イエスとその家族は天使のつげ知らせによって、かろうじてエジプトへ逃れた。結果的には、イエスの出現と成長の対価として多数の命がうしなわれたと言えるだろう。 ところで、もう一つの疑問は、装丁者氏はなにゆえこの絵のこの部分を表紙においたのか、ということであった。しかしこの疑問は、仮に上記の心霊写真説が正しければ読み解けそうではある。 ――と偉そうに憶測を述べてみたものの確証はなにもない。本書担当者氏の創意をうまく理解できず、そのため日も夜も疑問で頭がいっぱいになって仕事に身がはいらず出世が覚束ないのも、もとを辿れば子供のころから勉強をせず遊びほうけてきた報い、身から出た錆とはこのことである。誰か教えて。
★村上芳郎『クローン人間の倫理』(みすず書房、2003/01、Amazon.co.jp)
一人のボクサーの魂をめぐって地獄と天国の使者が争う。どういうわけだかわからないが、この人物の魂の行方に、天国と地獄の双方の命運がかかっているというのだ。どちらのサイドも、この魂の獲得に余念がない。というわけで、両サイドから地上へ工作員が送りこまれる。地獄からの使者が、ペネロペ・クルス。天国からの使者が、ビクトリア・アブリル。問題の魂の所有者であるボクサーはデミアン・ビチル。この作戦を指揮する地獄の作戦本部長が、ガエル・ガルシア・ベルナルで、天国の作戦本部長がファニー・アルダン。 愉快なのが、天国・地獄・地上の描き分けだ。天国の公用語はフランス語。画面はモノクローム。作品中はじめて天国が描かれるショットでは、パリの街中を移動するカメラがエッフェル塔を映している。こりゃトリュフォーだ。近頃は、やってくる魂が少なく、経営破綻寸前。他方の地獄の公用語は英語。巨大な監獄にさまざまな人種を思わせる人々がつめこまれて、警備員らが見張る中、刑罰レヴェルの認定を受けるための列をなしている。なかにはターバンを巻いた「異教徒」たちの姿も散見される。画面にはスモークがかかって、いつもほこりっぽい。地獄は収容者数過剰でパンク寸前。それから件のボクサーが住んでいるのはマドリードなので、公用語はスペイン語。ちなみに、地上からやってきた魂を天国行きか地獄行きか判定する裁判所の公用語はラテン語。 ストーリーは語るそばからネタバレになるから述べないが、キャストとこの設定(は予告編で宣伝されていた)を観たくて劇場へ参じた私は、あちこちに細かく練りこまれた笑いや機知をたのしみつつ飽きずに観ることができた(とはいえ、冒頭におかれた聖書談義のダイアログによって与えられたタランティーノばりの会話が映画を通じて維持されるのかとの期待は裏切られたが)。先日ようやく観ることができたフランソワ・オゾンのこれまた愉快な『8人の女たち』(8 femmes, 2002)とは違った意味で劇中の歌と踊りもよい。だいたい、劇場を出てから後日この作品を思い出すつど映画の印象とともに耳に流れるのはクルスが踊るシーンで使われた「KUNG FU FIGHTING」とアブリルが歌って踊る「I WANT TO BE EVIL」だ。 私は、劇場を後にして入った食堂で飯待つ間、外套の物入れからダンテの『神曲I――地獄篇』(寿岳文章訳、集英社文庫ヘリテージシリーズ、集英社、2003/01、Amazon.co.jp)を取り出した。最後に読んだのは随分前のことで記憶が曖昧だけれど……たしか冒頭の方に……あったあった、第四歌。地獄送りになった著名人のリスト。ホメロス、ホラティウス、オウィディウス、ルカヌス、エレクトラ、ヘクトルにアイネイアス、ユリウス・カエサル、それから、そうそう、アリストテレス、プラトン、ソクラテス、デモクリトス、ディオゲネス、アナクサゴラス、タレス、エンペドクレス、ヘラクレイトス、ゼノン……。うーん、壮観。そりゃこの時代から収監しつづけてれば2003年には、パンク寸前でもおかしくないね。ところでこの人達の罪状は、そう、「異教徒」であること。ということは、私も地獄送りですか。ってまあ、異教徒以前に他の理由で送られるかもしれませんけど。英語の勉強しなくちゃ(ラテン語がわかれば少し有利かもね)。 そうそう、原題の SIN NOTICIAS DE DIOS は直訳すれば「神の告げ知らせなしに」となるけど、パンフレットでは一言も言及されていなくて残念。 ★Crest international‐配給会社のWEBサイト。作品情報など。 ★SIN NOTICIAS DE DIOS‐公式サイト。(スペイン語)
のっけから話しが逸れた。今日は、宅配の兄さんに余計なことを言われながら(こだわってるね)届いたなかの一冊、デイヴィッド・J.チャーマーズの、Philosophy of Mind: Classical and contemporary readings(Oxford University Press, 2002, Amazon.co.jp)について余計なことを話そうと思ったのだった。 本書は、『意識する心――精神の根本理論を求めて』(林一訳、白揚社; The Conscious Mind: In Search of a Fundamental Theoly)で、心脳問題の「ハードプロブレム」を提示し、その解決の糸口を「自然的二元論」に求める議論を展開したチャーマーズによる精神に関する哲学(もっと言えば心脳論)のアンソロジーだ。タイトルにもあるように、"Classical and contemporary" な著者たちの論文や書物からの抜粋を集めた本である。 目次情報などを確認せず本書を注文した私は、そう思っていた。これ一冊を携帯すれば、あれやこれやの本や論文をかきあつめる労をはらわなくても心脳論についての見とおしをつけられるんではないか、ひょっとして。との下心も手伝っていないといえば嘘になるが、本当のところはあの本の著者が、心脳論のアンソロジーを編んだら一体どういう本ができあがるのか、という関心で入手したのであった(人が本を買う理由を思いつく限りあげなさい)。 手許に届いたのは、予想にたがわぬ大きな本で、ペーパーバックスながら、675ページ/本文はニ段組。63の論文、書物からの抜粋がつめこまれている。しめしめ、これはよさそうだ。さて、目次を検討しましょうか。ってんで目次を見て吃驚。どうやら、私は classical の意味を誤読していたようだ。つまり、classical ということで、プラトン/アリストテレスあたりからストア派やガレノスを通って、中世ヨーロッパとイスラムの大海原を渡り、ルネッサンスなども睨みつつ、しかるのちおもむろに、デカルト、ラ・メトリ、スピノザ、ライプニッツを吟味し、一方ではマッハ+フッサールのラインから生じてゲシュタルト心理学を視野におさめたメルロ=ポンティへと展開する現象学的な意識論を、他方では実証心理学の流れと意識の裏側を探究したフロイトに端を発する精神分析学の功罪をふまえつつ、しかし「唯一心脳論を解決した古典」ベルクソンの『物質と記憶』を中心にすえながら20世紀へとなだれこみ、ベルクソンの批判的継承者ドゥルーズの仕事を検討しながら、他方で認知科学、人工知能論、神経生理学、脳科学に応答しながら思考された諸々の contemporary な心脳論に至るのか、と思っていたわけです(これはこれで偏ってますガ)。 だがしかし。ざっと見た感じ、本書に含まれている19世紀以前の仕事は、デカルト(Renè Descartes, )、ハックスリー(Thomas Henry Huxley, 1825-1895)、ブレンターノ(Franz Brentano, 1838-1917)くらいかもしれない。あとはのきなみ20世紀の論考。つまり。本書の classical は、(上記三名をのぞくと)20世紀初頭を念頭においている。それもそのはずで、『意識する心』を検分すればわかるように、チャーマーズの関心の中心は、あくまでもクオリアという難問なのであって、彼はそれについて同時代の科学的知見や哲学が提出する諸問題と考えあわせながら解いて行こうとしているわけで、心脳論史を編もうとしているのではない。また、ご本人も、まえがきの中でこうおっしゃっている。 The philosophy of mind has become an enormous and diverse area of research in recent years, and it is impossible to cover the entire field in a book like this. In general, I have aimed for depth of coverage in the central areas of the field, but difficult omissions have had to be made. In particular, one cannot do justice to the thriving and sprawling area of the philosophy of cognitive science as a mere section in a book like this. Instead, this topic will be covered in a forthcoming companion volume, Philosophy of Cognitive Science.(p. xi) 要するに、精神の哲学はただでさえ多種多様なわけで、その全領域をこの一冊でおさえるなんてことはとてもできる相談じゃないから、僕が大事だと思うところを中心に編んだよ。それで認知科学の哲学については別途本をつくるから待っててね、という次第(要しすぎか)。 そういうわけだから、20世紀の議論を考察するうえで抜かせない道具となっている、デカルトさんの二元論とブレンターノさんの志向性はおさえて(オルダス・ハクスリーのお祖父さんであるトーマス・ハクスリーの「動物=自動機械仮説とその歴史」もおもしろい)、あとは20世紀の英米の論考を中心にまとめてあるわけだ。 以上は、ナイモノネダリの非難に見えたかもしれない。けど、そうではなく、「勘違いしちゃった」というバツの悪さの表現なのです。20世紀の英米における心脳論の要所をコンパクトにおさえてみたい読者にとって、本書はよき手引きたりうると思う。誰か日本語で読める心脳論重要論文アンソロジーを編んでくれないものだろうか。 余談:『意識する心――精神の根本理論を求めて』の邦訳書をお読みになった方は、表紙の見返しに印刷されていた著者近影をご記憶だろうか。長くのばした巻毛とほっそりとした顔立ちが印象的なチャーマーズ青年のモノクロームの写真を。他方で、チャーマーズ氏のWEBサイトの近影をご覧になっただろうか。私は最初、間違ってイングヴェイ・マルムスティーンのサイトに行ってしまったかと。前にも書いた気がしますが、著者近影の移り変わりを見るのはおもしろいですね。ソルジェニーツィンの収容所前/収容所後、とか。
★Philosophy of Mind‐同書の目次と訂正情報。(英語)
そこは渋谷の東急本店。Bunkamuraのル・シネマ。おばさま方のパラダイスである東急本店に併設された、おばさま方の娯楽の殿堂。その一翼を担う劇場だ(そんなことはないか)。 今日、観に来たのはジャンヌ・モローがデュラスを演じる『デュラス――愛の最終章』(Cet Amour-là、2001)。ヤン・アンドレアの『デュラス、あなたは僕を(本当に)愛していたのですか』(村上香住子訳、河出書房新社、2001/05; Yann Andréa, Cet Amour-là, 1999)を下敷きにした作品。 マルグリット・デュラス(1914-1996)の熱烈な愛読者であった青年ヤン・アンドレアは、デュラスとの五年に及ぶ文通の末、デュラスに逢いにゆく。それは1980年の夏のことで、アンドレアは27歳、デュラスは66歳だった。アンドレアはそのままデュラスの愛人となり、口述筆記者となり、看護人となり、デュラスの最期をみとった。 この映画は、デュラス晩年のアンドレアとの生活を描いたものだ。二人は、始終ワインを飲み、ダンスを踊り、仲たがいをして、小説を書く。デュラスはヤン・アンドレアをヤン・アンドレアと命名し(この名前はデュラスの創作であるとのことで、ヤン・アンドレアの本名はわからない)、四六時中「あなたはダメな男ね!」と罵倒し、ことあるごとに「出てッて!」と追い出す。 印象深いのは、デュラスが口述する小説やエセーを、ヤン・アンドレアが二本指のタイプでタイピングする場面だ。デュラスの口から出る文章を、アンドレアが聴き、タイプしてゆく。そりゃあんた、口述筆記ってぇのはそういうもんですがな、と言えばそれまでだが、言葉の熟達者である作家が声に出して創り出す言葉を、その場で、自分の身体を通して、時間をかけながら、物質化する気分とはいかがなものだろうか。 ときどき、他人の文章を紙に書き取るという作業をしてみる。黙読するだけではわからない、それこそ文体とでも言うほかにない文章の機微とリズムを体感するためだ。体感してどうするのかは秘密だが、自分ではない人間の文章を書き取るという作業は、読む場合とはまた異なる染み込み方をするように感じる。自分ならしないような言葉のつなげ方、語彙の配置、文の区切り目をなぞるとき、自分の言葉遣いと他者の言葉遣いの間に摩擦が起こる。読む場合にもこの摩擦は起こるが、読む場合は、書く場合よりも比較的軽く見過されるように感じる。ともかく目を文の先へと動かしてゆけばよいから。しかし、写し取る場合、私は言葉を辿る以外にその文章を先に進むことはできない。目が文字の上をスっと通りすぎるようにはいかないのだ。 このことについて、アンドレアは原作の中でなにか言っていたようにも思うが、今はなにも思い出せない。
この映画、私自身はこの先もう一度観るかどうかはわからないが、デュラスに某かの関心をお持ちの方は観ておいても損はないと思う。それにしても、少し困ったのは、『死刑台のエレベーター』(1957)や『大人は判ってくれない』(1959)、あるいは『突然炎のごとく』(1962)などで私を魅了したジャンヌ・モローが、場合によってはこともあろうにミック・ジャガーに見えてしまったことだ。そしてエーメリック・ドゥマリニー演じるヤン・アンドレアがときどきジョン・レノンに見えてしまったことも併せて告白しておきたい。つまり、ミックとジョンが(以下ヲ欠ク)。
ワタリウム美術館で、「ヘンリー・ダーガー展――7人の少女戦士、ヴィヴィアン・ガールズの物語『非現実の王国で』」が開催されている。ヘンリー・ダーガー(Henry Darger, 1892-1973)といえば、ジョン・マクレガー編著による『ヘンリー・ダーガー――非現実の王国で』(小出由紀子訳、作品社、2000)の刊行(同書については、こちらに作品社による詳しい解説を参照)や、斎藤環氏による『戦闘美少女の精神分析』(太田出版、2000/04)での言及が記憶に新しい。 本展覧会は、ダーガーの手によるドローイングが48点出品されており、ダーガー作品をまとめて観るまたとない機会だ。 今回出品されているドローイングは、ダーガーが19歳からこの世を去る1973年まで書き継がれ、彼の歿後にアパートで「発見」された物語作品『非現実の王国』のために、ダーガー本人が作成した挿絵の一部。その物語は、タイプ原稿で15000ページを越え、この作品のために描かれた挿絵は300点以上にのぼるという。ついでに言えば、ダーガーが書いていた自伝は5000ページ以上あるものらしい(ダーガーの部屋を訪れ、この自伝を読んだ四方田犬彦氏がどこかに書いていた)。 問題の物語を読んだわけでもなければ、自伝の5000ページを読んだわけでもない私には、ダーガーについて何かを言う資格はほとんどない。ので、そもそも書き始めなければよかったのだが、ダーガーの原画に接する機会があることをお知らせしようと思ったのだった。って、メディアとしてほとんど機能していないこんな場所で「お知らせ」もなにもあったもんじゃございませんが :-) ご存知ない方のために、ワタリウム美術館にあるパンフレットから、『非現実の王国で』のストーリーを引用しておこう。 「この物語の主人公は、7人の小さくて可愛らしい、ヴィヴィアン姉妹たち。「グランデリニア」とよばれ、子ども奴隷を苦しめる極悪な国家と、もう一方の敬虔なカソリックの慈愛に満ちた国「アビエニア」との戦争物語である。この「アビエニア」を率いるヴィヴィアン姉妹は勇気と戦略の才能を備えて、邪悪な大人たちと戦い続け、最後には、見渡す限りの子どもたちの死骸の中での勝利を収める。この二つの国の奴隷制をめぐる、このほとんど読解不可能な物語は、おそらく彼が父親から教えられたアメリカの南北戦争の印象が影響しているとみなされている。戦闘、大虐殺の描写には、自然までもが殺戮に加わり、暴風雨、地震、爆発、洪水、燃えつづける火事によって、破壊が描かれる。子どもたちの味方としてドラゴンのような珍獣も登場する。空想、現実的妄想が混在する、大戦争が、真夜中にシカゴの一室で、繰り広げられていたのである」 本展覧会の48点に接するとき、とはつまり、グランデリニアによって虐殺され、文字通り死屍累々と放置された少女たちの生々しい死体のパノラマとその中で活躍するヴィヴィアンガールズたちを観るとき、それも反復して観るとき、たとえあなたがダーガーについて何一つ知らなかったとしても、そこにあるただならなさを感得されることだろう。それは単にグロテスクであるとか、暴力的であるといった性質のものではない。それがなんだと言われたら、今の私には即答する用意はないけれど。 一緒に論じたら、どちらのファンからもお叱りをうけるだろうが――ここでは叱られるかどうかという心配を余所にそう思ってしまったことを正直に述べると――静かなワタリウム美術館でダーガーの絵に向かい合いながら、私は花輪和一氏の漫画をあの作品に充満する妄想の威力の凄まじさ思い出していた。もちろん、花輪氏の作品の凄さは、それに尽きないのであって、たとえば、作品中にしばしば現れる物品などについての詳しい描写が、詳しさという次元を超えてたちのぼらせるるヒューモア〔それは従来作品に比べて描写にウェイトを置いているように見えた『刑務所の中』でも/でこそ、申し分なく発揮されていた〕の愉快なことといったら、それに対抗しうる作品としてすぐに想起できるのが大西巨人の括弧書きと深沢七郎のすっとぼけぐらいしかない程だ。それにしても、『刑務所の前』を読んで、『刑務所の中』では少しなりを潜めていた妄想力がリハビリを経て戻ってきたかのように物語に侵食しまくっているのを見て嬉しくなったのは小生だけだろうか? 余談中の余談が長くなったが、花輪和一氏についてはまた機会を改めてコメントしてみたい。 「ヘンリー・ダーガー展――7人の少女戦士、ヴィヴィアン・ガールズの物語『非現実の王国で』」は、2003年04月06日まで。
★ワタリウム美術館‐同美術館のWEBサイト。
吉田浩とともに『デリダ、異境から』(D'ailleurs, Derrida, 1999)を観た。 68分、デリダがしゃべりたおす(途中、少しだけジャン=リュック・ナンシーが出てくる)。チラシにデリダの名前でこう書いてある。「撮影の間ずっと、私は私のことを何も知らない未知の観客に語りかけようとした」 もし、デリダの書物を一冊も読んだことがない人が、この作品を観たら、驚きながら(唖然としながら)こう思うかもしれない。このデリダという人は、なんてよく喋るんだろう。異境、出自、割礼、動物(魚)、言葉、崇高さ、問い、書物、抑圧、読むこと、書くこと、書かれないはずの本、母、牢獄、歓待、パルドン、ネコのルクレティウスの墓(そういえばサッカーについてはしゃべっていなかった)などなどなど、途中わからないところもあるけどともかくこのデリダという人は、いくら語っても語り尽くせないという勢いで(といってももちろん、監督のサファ・ファティと編集のマリエル・イサルテルによる編集の結果なわけだが)喋る。喋る。喋る(一歩間違えると『モンティ・パイソン』と紙一重な気がするのはどうしてだろう)。そして、喋り言葉を駆使しながら、このデリダという人は、つねにたえず言葉が何か(存在)を固定して、ついにはこれを覆ってしまい、人がその何かではなくその何かについて語られた言葉によってその何かを知ったつもりになってしまうことに対して全身で、ほかならぬ言葉によって抵抗しているのだな、と。まるで同一性に回収されてしまわないように、つねに喋り書き散らしつづけているかのようだ。でも、本を出した後にはかならず「本を出すほどすばらしい主張があるようなふりをしてごめんなさい」「目立とうとしてごめんなさい」って思っているだなんて、気のいいおじさんなのだろうか。それにしても書斎は(一部)乱雑でいい感じだなぁ。日がな好きな本とか読むにはもってこいな感じの屋根裏部屋だなぁ。あ、なんか日本語の本もちらっと見えた。へぇ、デリダさんが使ってるPC、マックかな。 もしこのデリダを読んだことがない人が、デリダの本を読もうと思いたって書店に行ったとしたらどうか。彼/彼女はもう一度驚くに違いない。このデリダさんは、一体何冊の本を書いているのか、この言葉遊びにしか見えない本はなんなのか、この言葉の活発さはなんなのか、これは一体なんの本なのか、と。しかし、どこからとりついたらいいものやら……と思いながらなおも書棚を眺め歩いていると新刊書が眼にはいる。林好雄+廣瀬浩司『知の教科書 デリダ』(講談社選書メチエ259、講談社)なんて本が出ているなぁ、教科書か、わかりやすそうだな(うすいし)、これ読んでみようかな。ん? 隣になんだかすごいタイトルの本もあるなぁ。デリダさんが書いた本か。『有限責任会社』(高橋哲哉+増田一夫+宮崎裕助訳、叢書・ウニベルシタス752、法政大学出版局)って、このオッサン、経営学のことも書いてるんですか、と驚いたりして。 そんな奴はいないか。 『デリダ、異境から』の上映は、アテネフランセ文化センターで01月10日から16日まで(ただし、日曜祭日は休館)。
★アテネフランセ文化センター‐同作品の上映情報ほか。
年末年始は熱を出して寝ていた。文字通り寝ながら(というかより精確には倒れながら?)内田樹の『寝ながら学べる構造主義』(文春新書251、文藝春秋、2002/06)を読む。「まえがき」の口上がふるっている。内田氏は専門家のための解説書や研究書はつまらないからめったに買わないが、入門者のための解説書や研究書はよく読むと述べてから、なぜ「よい入門書」がおもしろいのかを説いている。
「……『よい入門書』は、『私たちが知らないこと』から出発します。
「よい入門書は『私たちが知らないこと』から出発して、『専門家が言いそうもないこと』を拾い集めながら進むという不思議な行程をたどります。(この定義を逆にすれば『ろくでもない入門書』というものがどんなものかも分かりますね。『素人が誰でも知っていること』から出発して、『専門家なら誰でも言いそうなこと』を平たくリライトして終わりという代物です。(中略))
「よい入門書は、まず最初に『私たちは何を知らないのか』を問います。『私たちはなぜそのことを知らないままで今日まで済ませてこられたのか』を問います。
「これは実にラディカルな問いかけです」 で、かくいう本書は内田氏がいう意味での「よい入門書」である。上記の引用文を読んでピンと来たら買い。内容については私がここで繰り返すまでもない。と言いつつごくごく簡単に言えば、本書は、構造主義以前の、マルクス、フロイト、ニーチェを軽く眺めた上で、ソシュール、フーコー、バルト、レヴィ=ストロース、ラカンのそれぞれの見所とそのおもしろさを手際よく見せてくれる、そんな書物。 内田氏の本を読み終えて脇にのけた私は、ますます上がる熱にうなりつつ、年末に観た映画や展覧会のことをぼんやりと思い出した。やばい、なんだか走馬灯のようではないか。 『Waking Life』――夢の中で夢から覚めている青年(しかも夢の中で何度も夢から覚める)が、起きているときには考えないようなあれこれについていろいろな登場人物の話しに耳を傾けながら考える、という夢を映画を観ている私たちにも見せる映画。表現技法についての話ばかりを耳にするけど、中身について話しましょうよ。 『シュレーバー回想録』――これは近く書評を書こう。 『火山高』――『少林サッカー』が『キャプテン翼』なら、本作は車田正美の『風魔の小次郎』だ。学校の覇権をめざして争う生徒と教員たち、そこへやってくる問題児の転校生がくりひろげる超絶バトル。授業中のチョーク投げも普通じゃないですからね、もう、直撃した生徒は机ごと飛びますから。っていうかあんな学校はイヤ。この映画を観て思ったのは、アクションを美しく見せるのは難しいのだな、という当たり前と言えば当たり前のことでした。 「ダニエル・リベスキンド展――存在の6つの段階のための4つのユートピア」――シェーンベルクのオペラ『モーセとアロン』の拡大された譜面に囲まれた「フェリックス・ヌスバウム美術館」、「追悼の書」をやはり拡大転写した部屋に配された「ベルリン・ユダヤ博物館」、湾曲した壁面が組み合わされた「北帝国戦争博物館」、巨大な立体が観る方向によって多様なシルエットを見せる「デンヴァー美術館増築計画」……これらのモデルには圧倒されるばかり。同時に建築(そこから連鎖して美術、音楽、映画……)について語るための語彙はどういう構造をしているだろうか、と考える。ICCでの開催に先立って行われた広島市現代美術館に行かなかった罰として(?)、カタログは自分で同美術館に申し込まなければ入手できないハメに。 『マイノリティ・リポート』――ディックの小説ってこんなに冗漫だったかしら? などというコメントは、ともかく愉しんで観た者としては不公平かもしれない。けど、この作品のスゴイところは観客全員に「プリコグ」(未来予知)体験をさせてくれるところだと思う。途中まで観るとその先で起こることが手にとるように「見える」んですからして。あら。 走馬灯が終わってもまだ生きていた私は、(よせばいいのに)カフカの『審判』を再読を開始して、(よせばいいのに)ヨーゼフKが叔父さんに連れられて弁護士の家に行き、(よせばいいのに)その家の女中さんとイイ仲になってしまうところまで読んだところで夢に落ちた。 高熱のときに見る夢にはいくつかのパターンがある。1)ミクロとマクロの世界が果ても無くつながりあっていて、その中を無限に落下/上昇する夢。2)なにか概念のようなものがしゅっと目の前にやってきて、しゅるしゅるっと私の身体に列をなしてはいりこみ、私の身体のなかでにぎやかにそれがガチャガチャと高速でルービック・キューブを操作するように組み変わり、しゅっと私の身体からなにかが出て行く夢。今回は2であった。つぎつぎと概念のようなものを吸収し、組み替えて、吐き出す。そういう機械作業を続けることしばし。
そうそう、吉田浩と「激情亭日乗」というコーナーを開始した。吉田浩と小生が、思いつきをインタラクションさせていくコーナー(Lycos ダイアリーという機能を使用)。更新がたいへん遅い拙WEBサイトに、多少なりとも活気をもたらせればなんて皮算用をしている。時事的な出来事についてもリアルタイムにコメントをしよう、てなことで書き始めたが、目下はどういう訳かストア派と政治のことなどを書いている最中。近くサイト全体の再構成を予定している。もう少しは使える(笑える?)サイトになるようにしたい、と考えている。ま、いつも計画は山ほどするんですけどね!
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