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| 00.はじめに introduction |
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■哲学の歴史をたどる単純な動機
わたしたちは以下につづく文章において、哲学と呼ばれる営為の歴史をたどろうと思う。「哲学と呼ばれる営為」? なぜ簡単に「哲学の歴史をたどろう」といわないのか。のっけから歯にものがはさまったようなこの物言い、何とかならないものか。だから哲学かぶれはイヤなんだ。あなたは早くも別のサイトへ飛ぼうと、マウスを繰りはじめているかもしれない。 なぜそんな言い方をしたのか。理由を述べてみればごく単純なことだ。つまり、ひとつの疑問のために、わたしたちはすんなりと「哲学の歴史をたどろう」と言えないのである。――それは「哲学とは何か?」という疑問である。 ありうる誤解に対してあらかじめ言えば、これはなにかを深刻ぶろうというポーズではない。また、単に物事を懐疑に付すだけの懐疑論をぶとうというのでもない。ごく気軽な、率直なひとつの疑問だ。哲学とは何か? 哲学するとはどのようなことか。それがわからないのでわたしたちは世上「哲学書」と呼ばれる書物を読んでみた。それでなにがわかるか。なにもわからないかもしれない。とりあえずは、そのようにして哲学についてわかったこととわからなかったこと、明瞭なことと不可解なこと、これらのことを書いてゆくつもりだ。 もちろん、ほかにもわからないことは幾らでもある。たとえば「文学」。ヴァリエイションとして「純文学」「大衆文学」「J文学」「大江文学」……その他種々の「X文学」があり、わたしたちは様々なところでこれらの言葉が書かれ話される場面に行き会う。しかし。こうした言葉は吾人がよく使うほどには明確な言葉でないのではないか? それは一体何であるのか? 人は「文学」という言葉でなにか漠然と言語芸術や言語作品のようなもの、あるいは「名作」と呼ばれる作品の連山を、もしくは「文学者」と言われる人々の営為を連想するのではないのか? などなど。ことは文学に限らない。まったくわからないことだらけだ。 途方に暮れていてもはじまらない。さりとてあらかじめ最善の出発点がわかるわけでも選べるわけでもない。どうするか。さしあたってどこかからはじめること。ただし。はじめたらかといって終わる保証はない。そう得心した上で、わたしたちは哲学をひとつの出発点としてみる。 ぼんやりとした印象だが、哲学はあらゆることに接続していそうだ。議論を進めるうちに、存外文学と哲学の違いを考えることになるかもしれない。あるいは音楽と哲学の関わりを、医療と哲学、映画と哲学、セックスと哲学、ファッションと哲学、社会と哲学、娯楽と哲学、自然科学と哲学、ロックンロールと哲学、政治と哲学、数学と哲学、動物と哲学、サブカルチャーと哲学、資本と哲学、子供と哲学、アルコールと哲学、写真と哲学、コンピュータと哲学、言語と哲学、教育と哲学、経済と哲学、演劇と哲学などなどなど、様々な「Xと哲学」についてその差異と関係を考えることにもなるかもしれない。とはいえ。検討した結果、哲学は必ずしもあらゆることと関係するわけではないことがわかるかもしれない。ともかく。予め供しうる答えを持ち合わせていないわたしたちとしては、そのようにして哲学と非哲学とを較べることも必要である。わたしたちは、哲学とは何かを考えるために必要なことについても考えながら議論することになるだろう。
以下に記述され、あなたによって読まれつつある文章は、今述べたまったく単純な問いに答えるための(あるいは答えないための)ひとつの試みである。だから。「哲学史研究会」という――いささか野暮ったくなくもない、しかしこの際わたしたちの意図を直截的に表現していると思われる――総称の許に書かれる以下の文章は、つぎのような用途には向いていないことを忙しい現代人であるあなたが以下を続けて読む価値があるかどうかを判断する参考になるよう、あらかじめお知らせしておきたい。 ・手短かに哲学や哲学史の概要を知りたい ・哲学書を読むかわりにしたい(読まずに知りたい) 「哲学史研究会」は、少なくともこれらの用途には役立たない。それというのも、わたしたちは哲学の歴史をたどりながら至るところで躓き、脱線し、口篭もり、狂い、間違え、そして吃るだろうからだ(まったく威張ることではないが :-)。また、世に少なからずある「読まずにわかる」式の書物が標榜する「読まずにわかる」ということが、考えるまでもなく誰の目にも不可能事であるのと同様に、わたしたちの文章を読んでそれをある哲学書を読む代わりにすることは不可能である。もちろん、「読まずにわかる」式の書物を読んでシェイクスピアの諸作品や『聖書』を「読んだことにする」のと同様に自己の責任において使うのは各人の自由だが。しかし繰り返すが、以下の文章はそこで言及され考察される哲学(者/書)の代替物ではないことに留意されたい。 そのような知識を期待してこの拙文を読みはじめられたあなたは、拙文よりもむしろ書店や図書館の棚にならぶより適切な書物に目を通されるのが早道である [★001]。
■どのように進めるか――地図を手に現地を訪れること ところでわたしたちはどのように議論を進めるのか。わたしたち自身が哲学についての規定を予め持っていない以上、このままでは哲学の歴史をたどることは覚束ない。知らないものの歴史をたどることはできないからだ。 ではどうするのか? まずは素直に(愚直に)、先達が作った何枚かの地図を手にしてみよう。哲学史と題する書物は多数ある。よく知られたところでは G.W.F.ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770-1831)の『哲学史講義』(Vorlesungen über die Geschichte der Philosophie)や B.ラッセル(Bertrand Arthur William Russell, 1872-1970)の『西洋哲学史』(The history of western philosoophy, 1946)などがある。また、前節の註に掲げた年表形式の書物も多くの情報を提供してくれるだろう。わたしたちは、これらの諸地図を必要に応じて参照しながらそこに現れる哲学者の著書を検討してゆく(あるいはそこに現れない人物について考える機会もあるかもしれない)。それは地図や案内を片手に現地を自分で歩き眺めることと似ている。地図や案内だけで済ませるのではなく、現地を訪れること。わたしたちはそういう風にして哲学について考えてみる。 注意しなくてはならないことは、地図にはいつも製作者の意図が反映されるということだ。わたしたちは彼らのつくった地図を道案内に使うとともに、その地図に映し出された彼らの意図にも注意する必要がある。道路のつながり具合を表現した地図には多分、それらの道端に生える植生や土壌の成分についての記述はないだろう。地図に表現しうる情報と製作者の持ち時間が無限ではない以上、また、なんらかの用途に供するものである以上、地図製作者は対象から地図に記すものと記さないものを取捨選択している。 同様に、完全な哲学史はない。「哲学史」はつねに有限の情報量のなかで、筆者のふるいに残ったことだけを取り上げている。だから、そこに現れる「哲学者」と現れない「哲学者」あるいは「非哲学者」を分かつものはなにか、彼がなにをもって哲学/非哲学をわけているのか、そうしたことにわたしたちは常に注意深く意識的であらねばならない。 いずれにしても肝要なことは、わたしたちはひとまずは先達の地図を用いるものの、それに対して必ずしも全幅の信頼を寄せているのではないということだ。わたしたちは必要に応じて地図に新たな書き込みを施し、間違いを発見すれば遠慮なく(しかし慎重に)訂正するだろう。地図とはそのようにして使い古し、作り替えてゆくものだからだ。 繰り返せば、わたしたちの意図と方法はごく単純なものだ。哲学とはどのような営為か? このことを、これまでに哲学と呼ばれてきた営為(多くは書物の形で参照するほかはない)を歴史的に俯瞰しつつそれらの書物を具体的に読むことによって考えること。これがここで行ってみたいことである。 気の長い話ではある。閑人の所業? なるほどそうかもしれない。人間は、1日に24時間ずつ死んでゆくというのにこんなことをしていてよいのだろうか? わたしたちとてそう思わなくもない。しかしそれでも人間は来る日も来る日も小説を読み、野球観戦にいそしみ、金勘定に没頭し、寝転がり、放心し、と、忙しなくなにかをしている。哲学について考えなかったからといって何か困ることもなかろうが、たまに哲学のことを気にかけたからといって困ることもあるまい。なんの因果かこのようなわたしたちの文章をここまで読み進めておられるあなたもこう言ってよければ奇特な方ではある。
さて、前口上が長くなった。次回から哲学史研究を開始する。最初に俎上にのぼせるのは、しばしば「哲学の開祖」とも言われるタレス(Thales)だ。 なぜ哲学史はしばしばタレスからはじまるのか? そこには哲学という営為を考える上で重要な鍵があるように思える。次回は、古代ギリシアにはじまるとされる哲学と哲学以前について考察する。⇒すすむ |
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