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| 『現象学の理念』ノート |
| 書 名 | 『現象学の理念』 | Die Idee der Phänomenologie |
| 著 者 | エドムント・フッサール | Edmund Husserl |
| 訳 者 | 長谷川宏 | |
| 出版社 | 作品社 | Martinus Nijihoff, Haag |
| 頁 数 | 150頁 | |
| 定 価 | 2000円(本体) | |
| 発 行 | 1997年06月10日 | 1958 |
| ISBN | 4-87893-277-5 |
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5つの講義の思考のあゆみ (担当:吉田浩) 認識批判はいかに確立されるか? 認識批判はあらゆる認識を疑問視するものではない。もしあらゆる認識を疑問視するならば、そもそも認識批判ははじまりようがない。認識批判をはじめるために、出発点として定立される認識は明晰・不可疑である「第一の認識」でなければならない。対象も同様に、絶対的で疑いの余地がない存在から考察をはじめなければならない。 デカルトの懐疑考察にふれつつ絶対確実な土台を獲得すること デカルトの懐疑考察によれば、一切を疑っても「私が疑っていることそのこと」を疑う余地はない。すべての思考(コギタチオ)についても同じことがいえる。認識の妥当性・的中性をどれだけ疑おうとも、認識そのものは絶対的にあたえられる。 絶対的所与の領域 あらゆる知的体験・体験一般は純粋な直観のうちに絶対的にあたえられる。この絶対的な所与はすべての思考形態にもあてはまる。その存在を疑うことは無意味。 反復と補足−認識批判の可能性を否定する議論の否定 自然的認識は認識の妥当性・的中性を無根拠に確信している。だが一旦認識の妥当性が反省されるとさまざまな困難・支障が生じる。認識批判学が探究するのは、自然的認識が閑却しているこの点である。 すべての認識を疑う認識批判では、認識ははじまりようがないという反論がありうる。たしかに認識批判学はすべての認識をもまえもってうけとらない。ただ、絶対的に明晰で不可疑な認識を第一の認識とし、これを認識批判学の出発点とする。そのさい、デカルトの懐疑考察より絶対的認識を考察し、思考の領域がこの条件を満たすものであるといわれた。さらにいえば「認識の内在性」が認識批判学の絶対的所与=第一の認識である。 自然的認識の謎−超越 「対象の超越性」こそが謎である。自然的認識は超越的な客観をはじめから措定している。 内在と超越の区別 2つの「内在/超越」
1・内在=実在的内在:認識作用のうちに実在的にあたえられるもの
2・内在=明証的内在:絶対的・明晰的な所与、ほんもののあたえられかた ここで、第一の内在を絶対的な明証性と取り違えてはならない。また、超越的なものをまえもって与えられたものとして利用することはできない。認識がみずからを超越するものにいかにして妥当するのか、そもそもそれは妥当しうるのかどうか、ということはまだわからない。 認識批判の第一の問題−超越的認識の可能性 認識はいかにして可能か、という問いを問う場合に、認識論は超越的客観を措定する自然的学問の認識を利用することはできない。 例)生まれつき耳が聞こえない人にとっての音楽。知識として知っていても直観できないことから推理することはナンセンスである。 認識論的還元の原理
認識論の研究では、すべての超越物に認識論的に零の符合をつけ、その超越物の実在に関する判断を停止する。
認識論的還元の実行−すべての超越物の排去 現象学的な意味での「純粋な現象」と自然科学的心理学の客観である「心理学的現象」を混同しないこと。心理的な見方では、体験しつつある知覚を自我と関係づけて統合する。 探究の主題−純粋な現象 自我や客観的な時間にくみこまれるこの個人の体験といった心理学的現象はすべて超越物であり、還元により判断停止をうけるものである。 現象学の対象は、自我や時間的世界といった超越性のなかではなく、純粋直観のうちにとらえられた絶対的な所与のうちに定立される。 超越物の存在が的確にとらえうるかは疑問だとしても、超越物と認識との関係そのものは、純粋な現象のうちにとらえうるものだ。なぜなら、超越物と関係してそれをなんらかのかたちで思念する作用そのものは現象の内的性格であるから。 絶対的な現象の「客観的妥当性」 判断は客観的な意味をもたない。ただ主観的な真理をもつだけだ。問題は経験的な主観だけに妥当する妥当判断ではなく、主観一般に妥当する客観的な妥当判断である。 認識論的エポケーの要求(超越の可能性が基礎付けられないうちはいかなる超越も認めない)と、客観的な基礎付けの要求は、現象学と認識論を不可能にする循環をなしているように見える。 だが、われわれは「明晰判明な知覚」(思考の明証性を確信させるもの)によってあたえられるものすべてを思考同様に利用できる。ほんものとしてあたえられるものをとらえる直観は、絶対的に自明なものである。 個別の所与に問題を限定できないこと−本質認識としての現象学的認識 直観にほんものとしてあたえられる絶対的な自明性は、個別的なものにしかありえないだろうか?一般的なものを絶対的に自明な所与として直観することはないのか。否。 われわれは思考についてくだす述語判断においてすでに個別性をふみこえている。言語表現のうちに反映している論理形式によってたんなる思考をこえている。 「アプリオリ」のふたつの意味 個別的なものだけではなく、一般的なものも純粋直観において絶対的にほんものとしてあたえられる。現象学は認識の可能性、価値評価の可能性を本質根拠から解明するための学問、方法である。この「本質」探究のためには上述のように、一般的なものが純粋直観に絶対的にあたえられると考えたほうが都合がよい。直観可能なものとして構成されるアプリオリなことがらもまた、現象学の対象である。 アプリオリのふたつの意味 1・アプリオリな認識とは、純粋に類的本質にむかう、純粋に本質からその妥当性をくみだす認識以外のなにものをも意味しない。 2・カテゴリーとして特定の意味で原理的意義をもつすべての概念、そうした概念に基礎をおく本質法則
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