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一時は盛り上がっていた人工知能の可能性や限界に関する議論も、今ではすっかり耳にすることがなくなった。理論的な考察があらかた出揃ってしまったらしいことや、人工知能に託されていた諸々の夢物語が(正当にも)打ち砕かれ、現在では地道な研究活動に議論の中心が移ったということが原因として考えられるかもしれない。ところで、人工知能について私が1992年に書いたと思われるメモが見つかったので、以下に掲載する。時代遅れな行為とは知りつつもあえてこの稚拙なメモを掲載するのは、私の知る限り現象学と人工知能とを結び付けて考察する文章があまりなかったように思われるからである。私にとって、人工知能とはすなわち現象学的問題であった。 <人工知能あるいは知と身体> ・人工知能の最大の問題として「フレーム問題」がある。これはどうして起こるのか。それはコンピュータが、「何を無視して、何を考慮するのか」という判断をすることができないからだ。しかし人間は、その判断を苦もなく行なっている場合が多い。なぜ人間には「フレーム問題」が問題として現れることが少ないのだろう。それを考えるには、人間が身体をもっている、という事実から出発するとわかりやすい。 ・まず、現象学的にいえば人間は自分の主観の外に出ることができない。だから現象学の根本問題は「なぜ人間は主観のなかに閉じ込められているにも関わらず、事物の存在や他者の存在を確信し、行動することができるのか」ということになる。 ・主観のシステムをひとつのコードとして考えるとしたら、人間はコードの外には出ることができないにも関わらずそのコードの正しさを確信している。現象学的にいえば、この確信は「正しい認識の根拠」なのではなく「認識の正当性の源泉」だ。そして人間にこの確信を植えつけるものが身体なのである。 ・知覚(知覚直観)や認識(本質直観)というものは、いわば「向こうからやってくる」。つまり身体感覚によって、人間の主観にはその認識なり行動なりを疑う動機をもつことができない、という地点がどこかで生ずる。これが人間をして複数の世界、フレームをもたせる源泉なのだろう。しかし、その世界、フレームは「確信」「妥当」という形式をもつのであり、「正しい」ものではありえないということが重要である。 ・ここが、(現時点での)人工知能と人間の認識の違うところだ。人工知能が他のコンピュータシステムと同様に「正しさの世界」にあるのと違い、人間は正しさとは無縁の「確信の世界」に生きているのである。いわば、人工知能は正しすぎるのだ。あるコードはそれ自身の正しさを判定できないのだから、コンピュータが「正しい」限り、自身の正当性を判定できない、ということになる。 ・そもそも人間が、主観というコードの正しさを確信するということ自体が驚異的な、非論理的な事態なのである。このように論理的には不可能なことを人間がやってのけてしまうのは、人間が身体によって認識の正当性を確信させられているからである。人工知能に上記のような人間のもつ驚異的能力(非論理性)を求めることはすなわち、人工知能にも身体を、そして人間と同様な愚かさを求めることであるようにおもわれる。 (1997/07/27 吉川浩満) |
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