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65歳、踏切の死

仕事中、読売新聞(インターネット版)の見出しが目にとまった。酔っ払った65歳の男性が遮断機の降りた踏切に侵入し電車にはねられて死亡、泥酔していたために電車が来ることに気づかなかったらしい、とのことである。別になんということはない三面記事といえばいえる。しかしこの記事を読み終えた瞬間、私はいいようもない怒りを感じたのである。死んだ男性が、なぜ走ってくる電車に無頓着でなければならないのか。まさに走ってくる電車に飛び込むことこそが彼の目的だったかもしれないではないか。そもそも、残されたのは一体の死体とそこから検出された多量のアルコールのみだ。そこからなぜ、「電車が来ることに気づかなかった」という、さもわかったような結論が導出されなければならないのか。いったいぜんたい、お前(新聞記者)は何様のつもりだ。まったく面識もないひとりの老人の死に、こんな貧弱な推論から意味を与えることができる(た)とでも思っているのだろうか。お前(新聞記者)はそんなに偉いのか。これが裁判や検死の場面ならば話はわかる。まずはひとつの解答を与えることこそが求められているからだ、たとえそれが誤りである可能性を窮極的には排除することができないにしろ。しかしこの新聞記事の場合、ひとりの老人が電車にはねられて死んだこと、その体内から多量のアルコールが検出されたことのみを伝えればよろしい。記事の役目はそれで十分に達成される。そして、それこそがお前ら(新聞記者)の仕事であり、それさえきちんとこなしていればよいのである。それ以上のことは新聞を代表とする一般的メディアの管轄外だ。なぜなら、彼がなぜ踏切に足を踏み入れたかなどということは、誰にも絶対にわからないことだからである。この記事は、わからないことに安直な解答を与えることによって死んだ老人を侮辱したとしか、私には思えない。新聞なんぞにそんな解答を与える権利はないし、そんなことは誰も頼んではいないのである。……と結んだところで、実はもうひとつの疑問が頭をよぎる。多くのひとが新聞(を代表とする一般的メディア)に「それ」こそを望んでいるのではなかろうか、という恐ろしい疑問が。

(1997/08/24 吉川浩満)






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