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フッサールは『現象学の理念』において、絶対的な明証性(絶対的な不可疑性)を基礎として現象学が出発しなければならないと述べているのだが、その際に内在を、実在的内在と明証的内在とに区別している。ここでは、それらふたつの内在の違いに触れてみたい。
まず実在的内在、明証的内在をともに含んだ内在一般については、それはもはや疑う理由を持つことができない不可疑的な認識領域のことだといえる。 次に実在的内在についてであるが、これは知覚によってあたえられる対象だといえる。知覚は想起や記憶、想像などと違い、意識の自由にならないものとしてあらわれる。むしろ、知覚とは意識の志向性の意のままにならないならないものだと定義できるだろう。これが内在の領域であるというのは、知覚によってあたえられる対象について、われわれは疑う動機をもつことができないからである。 最後に明証的内在についてであるが、これは実在的な知覚を必要としない不可疑性だと、ひとまずはいえる。知覚をともなう実在的内在が不可疑的なものだということは容易に理解できるが、知覚をともなわないような抽象物がわれわれの意識に不可疑なものとしてあたえられるというのは、どのようなことだろうか。明証的内在としてもっとも簡単な例としては「2×2=4」というような数式があげられる。ここで、算術とは単なる数学上の約束事であるからそれは不可疑的な内在とはなりえない、と考えるのは自然だ。「2×2=6」となる世界を想像することも可能だからである。しかしフッサールはそうは考えない。彼は、私が「2×2=4」を学習したそのときから「2×2=4」は確かな存在者になるのだという。明証性とは不可疑なものだという定義からすれば、「2×2=4」は確かに明証的な内在といえよう。私は「2×2=6」であるような世界を想像することは可能だが、それでもその想像は「2×2=4」の世界を前提としている。逆にいえば、「2×2=6」の世界の住人にとっては「2×2=6」こそが明証的内在となるであろう。ここでもまた反論が予想される。それでは完全な独我論ではないか、正しさはどこへいってしまったのかという反論である。しかし、現象学のモチーフは正しさを探ることにはなく、絶対的に明証的な地点から出発することで認識の意味を明らかにしようとすることであるから、この反論は的外れであるといえよう。そもそも現象学は唯一の方法として自覚的に独我論を選んでいるのであり、そこで問題とされるのはあくまで明証性であって、正しさではないからだ。人間は世界の実在というものを正しさからうけとっているのではなく、明証性という不可疑な内在からうけとらされているのだ、これがそこから帰結する人間の認識の意味である。 (追記)識者にとっては容易に推測できることだが、明証性に関する以上の考えは『現象学の理念』についての理解としては間違っているのではないかと現在の私は考えている。これについては続編(「実在的内在と明証的内在 #2」)でも書き起こして再び考えてみたい。 (1997/09/20 吉川浩満) |
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