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プラトン私観 #1

#私にとってのプラトン観の一面を述べる。あくまで一面でしかない理由としては、このように小出しにしないと体力がもたないこと、一挙に無矛盾の体系としてプラトンをとらえる能力が私に欠如していること、さらにそうしていいのかどうかすらわからないことなどがある。(八雲出が本格的なプラトン研究を準備中。)大方の解説書・研究書と違い、私は作品として完結している『饗宴』などよりも、議論が宙づりになったまま終わってしまう『プロタゴラス』などの方をずっと評価し、また気に入ってもいるのだが、ここではその理由について考えてみたい。


まず、プラトンの著作中にはふたつの思考様式があると仮定してみる。そしてそれぞれ、ソクラテス型思考様式、プラトン型思考様式と名づけてみよう。著作中のどこまでがソクラテスでどこからがプラトンであるかを確定するとか、歴史的ソクラテスと歴史的プラトンとを峻別したりすることがここでの目的ではない。単に、便宜的にそう仮定して考察することで、プラトンあるいは哲学にたいするひとつの視点を設定できるかもしれない、と思うだけである。(もちろん、プラトンの著作の主人公はほとんどソクラテスなのであるから、プラトンにソクラテス型とプラトン型というふたつの思考様式があるというより、プラトンが描くソクラテスにふたつの思考様式があるといういいかたのほうが、より正確だろう。)もし各々の思考様式に付けられた人名がどうしても気になるようなら、ひとまずプラトンのことは忘れて、それぞれに「A型思考様式」「B型思考様式」「岩鬼型思考様式」「山田型思考様式」などの任意の言葉を代入されたい。

まず、ソクラテス型思考様式とは何か。それはエレンコス(反駁的対話)によって特徴づけられる。主に初期の作品群『プロタゴラス』や『ゴルギアス』など、ソフィストとの論戦にみられる思考様式だ。そこで描かれるソクラテス、つまり相手の議論の矛盾を突き、議論のよってたつ前提そのものをくつがえし続けるばかりで、積極的に自説を開陳するなど決してしないソクラテスを目の当たりにすると、いったいこの人が結局なにをしたいのか、何を言いたいのかがわからなくなることがある。だがそれもそのはず、そもそもこの人には結局言いたいことなどなにもありはしないのだ。より正確にいえば、「結局」という言葉が要請されるような場面で何かを言うことを、あるいは「結局それは〜」と何かを説明することを、かたくなに拒否するのである。それは産婆術などではない。(もちろん、自他双方がよってたつ議論の前提がもつ矛盾やあいまいさを切り崩すことによって、不断に新たな議論の次元を切り開いていくこと、そのことを産婆術と呼ぶとするならば別だ。)純粋なソクラテス型思考様式とは、エレンコスによって、当の議論を成り立たせしめている自明の前提をくつがえし、不断に議論のあらたな次元を切り開いていこうとする試みにほかならない。ある議論が成立するときには必ず、それ自体の是非を問うことができないような、あるいはそれ自体の是非を問うことがすなわち議論全体の存立を脅かすような前提が存在する。この思考様式が問うのはいつも議論の前提それ自体の是非なのであるから、議論の新たな次元が開けたところで、エレンコスが終わることはない。ソクラテス型思考様式の目的は、「結局」(という言葉)に続く言葉を拒否しつつ、エレンコスを永久に行い続けることだといってもいいくらいだ。初期対話篇が中途半端に終わる理由の一端もここにある。

では、プラトン型思考様式とは何か。それは神話的説明によって特徴づけられる。主に中後期の作品群『パイドロス』や『饗宴』など、神話の形式を借りたソクラテスの演説的饒舌にみられる思考様式だ。前述のソクラテス型思考様式との対比でいうとそれは、「結局」(という言葉)に続く言葉を構築することを目的とする。例えば『パイドロス』では、人間の魂が「翼をもった善悪二頭の馬と、その手綱をとる翼をもった馭者」というイメージによって表現される。人間の魂とは、悪い方の馬にわずらわされて地上に落ちたあげく人間の肉体に宿った魂のことである。人間の魂が真実在を希求するのは、かつて神々に従って天空を駆けめぐり彼方の領域にて観得したイデア的真実在を想起するから、というわけである。よくできたお話ではある。結局魂の本性とはそういうものなのだから、と。この種のよくできたお話は、イデア論、想起説、魂の三部分説など、自身の教説を盛り込むには恰好の器であったといえよう。それどころか、むしろこの神話的説明は、プラトン型思考様式が必然的に要請する手法であったともいえる。よくできたお話(神話)を用いて議論に決着をつけない限り、エレンコスは永久に終わらないことになるし、またそうなってしまえば、教説の積極的提示が不可能になるからである。

さて、プラトンの解説書などを開いてみるときまって称揚されているのが、ここでいうプラトン的思考様式である。善きことへの理想に燃えるイデア論者ソクラテスがそれだ。初期対話篇の多くが議論を宙づりにしたまま終わってしまう理由は、プラトンの作家・哲学者としての未熟さのせいだというわけである。また後期対話篇での、多くは神話の形式を借りたソクラテスの美しい饒舌、そこで提示される完成されたイデア論は、プラトンの作家・哲学者としての成熟を物語っているというわけである。だがしかし、私の考えでは、そこに見出されるのはプラトンの精神の発達史などではなく、明らかに対立するふたつの完成された思考様式なのだ。

プラトン以後、よくできたお話を語った哲学者はいくらでもいる。彼らはプラトン型思考様式という点では同じものを共有していた。単に、そのよくできたお話の内容が違っただけである。しかし、ここで提示したソクラテス型思考様式、これは非常に得難いものだ。「結局」(という言葉)に続く言葉を拒否しつつエレンコスを不断に行い続けたプラトン以後の哲学者として、私はウィトゲンシュタインひとりをあげることができるのみである。もちろん数の多少は問題ではない。私にとって本質的なのは、そこに思考の運動があるかないかということなのである。プラトン型思考様式では、運動する思考が描かれながら、決して思考そのものが運動をすることはない。「結局」(という言葉)に続く言葉で物事を説明し尽くしたとき、思考は運動することをやめる。それは思考の運動の終着点なのである。ソクラテス型思考様式がもっとも恐れたのは、プラトン型思考様式が陥るこの思考の停止であった。プラトン型思考様式とは、思考の運動がそこで永久に止まってしまう地点にほかならなかった。エレンコスに「結局」という言葉は存在してはならない。そうである以上、ソクラテス型思考様式は、「結局」(という言葉)に続く言葉を吐くこと、「結局」という言葉が要請される場面そのものを、徹底的に拒絶するのである。


#ヘーゲルとハイデガーは、プラトンについてそれぞれ決定的なことを述べているのだが、ここでの私の雑文と彼らの論考との関係については、また別の視点からの考察が必要になる。これには次の機会に触れることにする。なお、不勉強ゆえ私は研究書の調査はおろか原典批判などもまるでしていない。明らかな間違いや、いまさらいうまでもない常識も含まれているだろうと思う。ご了承いただければ幸いである。

(1997/09/27 吉川浩満)






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