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名はなくとも……

今日はひとつ、つまらないことを(いつものことじゃないかと言われれば確かにそうだが)。石原慎太郎が、『日本人であるということ』(福田和也著、ハルキ文庫)の解説を書いている。その解説に、こんなくだりがある。あるとき、石原がテレビのチャンネルをNHKに替えてみたら、「小朝がまいりました」という長寿の老人相手の番組が放映されていた。その番組で小朝が「この先日本はいったいどうなるんでしょうねえ」と慨嘆してみせたところ、出演者の老人が言下に「いや、するべきことをちゃんとしていれば、日本は大丈夫だ」と言う。気おされた小朝が、「じゃあ、そのやるべきことって何なんでしょう」と聞くと、老人これまた言下に「発明をたくさんしたらいいんだ。そのためにもっとたくさんお金をだしたらいいんだよ。そうすりゃこの日本は大丈夫なんだ」と言い切った。石原はその言葉を、まさに陶然たる思いで聞き入り、反芻したという。そして以下のように、そのときの感動を高らかに謳いあげる。
明治の日本人の素晴らしさ、その教養の本物さ、何が人間の歴史を動かしてきたのかをきちんと承知し、それを自らの祖国に当てはめ、自らが手を添えて培ってきたこの国の歴史に誇りと自信を持ち、自らの後裔を信じて憚らぬ、名はなくとも比類なく素晴らしい同胞の先輩に私は心から脱帽していた。(註1)
えーと、さて、人にはそれぞれ名前がある。奇をてらっているわけではない。まずそれを確認しよう。これは誰でも知っている事実だ。当然この老人もまた、名前をもつ(もしこの老人が、NHKの最新技術によるCG作品だったしても、以下の論にはまったく影響がない)。それなのに敢えて「名はなくとも……」と言うとは、どんな事態だろうか。この場合はもちろん、石原がその老人の名前を知らないからであり、それに尽きるかに思われる。しかし実は、「石原が老人の名前を知らないという事実」と、「その老人を『名はなくとも』と形容すること」の間には、思ったよりずっと大きく深い溝がある。前者から後者へと至るには、一種の飛躍が必要だ。そもそも、単に名前を知らないだけであってそれ以上でも以下でもないのであれば、わざわざ「名はなくとも」などいう言葉を挿入するまでもないからである。「名はなくとも」という言葉がなくたって、この文章は構文的に十分成り立つのだ。また、石原にしたところで、この老人が本当に名前をもたぬなどと考えたわけではなかろう。ということは、この老人が本当は名前をもっているに違いないことは確実であるにもかかわらず、石原にとっては、ぜひともこの老人が「名前をもたない」存在でなければならなかったのだ、としか考えようがない。「名前をもっていてはならない」存在でなければならなかった、といっても同じだ。石原の「感動的」な文章には、構文的にはどうであれ、感情的にはぜひとも「名はなくとも」という言葉が必要だったのではあるまいか(もちろんこれは読者にとってではなく、石原にとっての必要なのであるが)。このような精神の持ち主は、それぞれが名前をもち、それぞれが固有の生を送ったに違いない人々をいっしょくたにして、「名はなくとも」勇敢に戦いそして散った兵士だとか、「名はなくとも」献身的に国を支えた民衆とか、そのような「名もなき」一群の人々を無理矢理にでもでっちあげずにはいられないようだ(このような考え方がいったいどんな帰結をもたらすかについてはたくさんの人が言及しているので、ここでは言うまい)。そういうわけで石原は、現にテレビカメラを前に堂々とした自説を述べる矍鑠とした老人にたいしてまで「名はなくとも」などと筆を滑べらせてしまうという、愚劣な真似をやらかしたのである。……と長々と駄文をつらねてきたわけだが、それは結局石原が政治家だからであって、そんなことはいまさら驚くまでもなかろうと言われれば、確かにその通り。以上。

ちなみに、石原と同様に私も、この老人は立派なことを言うものだと感心したことを、念のために付け加えておく。しかし石原と違い、この老人がれっきとした名前をもつ人だということを私は確信している。


★註1――福田和也『日本人であるということ』ハルキ文庫、227頁。(強調は引用者。)

(1997/10/21 吉川浩満)






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