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哲学の起源 #1

西欧哲学にとってギリシア語は、溯ることが可能な言語の終着点である。それはヨーロッパ諸言語の源であるという意味でもあり、同時に西欧哲学が哲学をするその手つきを模倣してきた手本が示された最初の言語という意味でもある。

エマニュエル・レヴィナスは、サロモン・マルカとの対談の中でつぎのように述べている。
・・・必要なのは、その『生きられた経験の記憶』から出発して、すべての哲学者が用いる言語に到達することです。そのような言語のことを私は『ギリシャ語』と呼んでいます。たとえ私たちがヘレニストでなくても、その言語は『ギリシャ語』と呼ばれるのです。この言語は、要するに、だれにでも追体験可能な述語を用いています。つまりギリシャ語の述語を遡及していっても、まったく個人的なある種の内密な経験にいたることはない、ということです。これを発見したのはギリシャ人です。
サロモン・マルカ『レヴィナスを読む』(内田樹訳、邦訳書、p.152)

レヴィナスがギリシア語を「だれにでも追体験可能な述語」を用いた言語であると言うとき、もちろんその「追体験」とは古代ギリシアの人間が使っていたギリシア語として体験可能だと言っているのではない。むしろ、古代ギリシアの哲学者たちのギリシア語とは、われわれにとってもはや実体験不可能な言語である。だからレヴィナスは「まったく個人的なある種の内密な経験にいたること」がありえないと言う。いわば、ギリシア語はわれわれにとって経験の地平である。

例えば、英語の philosophy 、独語の Philosophie、仏語の philosophie、さらにはラテン語の philosophia はギリシア語を音写した言葉であるという。これが事実だとすれば、これら各国語のいずれの中でこの哲学という言葉・概念について考えようとも、われわれはそれをギリシア語の philosophia において考えるほかにない。

なるほど各国語における「哲学」なる言葉は、各国語の歴史に応じてそれぞれの意味を堆積しているかもしれない。だがしかし、その言葉の意味の最古層にはつねにこのギリシア語があり、この言葉の意味はいつもこれを源泉とし、ここから汲み出されているだろう。そしてこの古代の言語は、われわれの体験の彼方にある。あえて言うならば、それらの言葉は、現存するさまざまなテクストの中にある。そしてこと哲学という営為に関する限り、いまのところわれわれはギリシア語以前に溯ることはない。英語の philosophy がギリシア語の philosophia に支えられているようには、ギリシア語のそれは他のなにかによって支えられてはいないのだ。この限りにおいてギリシア語は、(西欧)哲学者たちの共通言語である。

ここで見落とされてはならないことは、理解の問題である。われわれはたしかにギリシア語のテクスト(言語)に西欧哲学の源泉を見、それを遡及可能な言語の終着点として誰の体験にも還元されえない次元において参照することができる。だがそれをだれもが追体験可能だというのは、ある古典的な物理法則を万人が追体験可能だという意味においてではない。なぜならそのテクストは、各人が日常使用する母国語によって解釈されなければ意味を持ち得ないからだ。つまり、先ほどギリシア語は他のなにかによって支えられてはいない、と述べたが、それはあくまでも言語の発生という観点から考えた場合のことであって、実際のところわれわれはギリシア語のテクストをわれわれの言語に置き換えなければ(われわれの言語によって支えなければ)意味を汲み取ることができないだろう。そして、解釈はもちろんパースペクティヴを前提としている。(この項続く)

(1997/11/30 八雲出)






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