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脳と心 #0

本稿は、「脳と心」のタイトルのもとにこれから断続的に発表していく論考への導入部である。本稿の目的は「脳と心」の関係をどう考えればよいのか、あるいはどう考えなくてよいのかを明らかにすることにはない。ここでは単に、脳科学の知見を支えている「実験」というものがいかに脆弱な基盤の上にたっているか、そして「実験」に際して自明と判断されている種々の前提が必然的に哲学的議論を誘発せざるをえないことを指摘するのみである。しかしこれによって、実験で証されたとされる「脳と心」の関係についての知見がなお議論の余地あるものだということが明らかになり、次に何を考えればよいのかがわかるかもしれない。本稿が導入部であるというのはそういう意味である。そしてここであぶりだされた問題については、後の論考で取り上げて論じていく予定である。

『「私」は脳のどこにいるのか』という本のなかで、随意運動と運動準備電位の関係についての実験が紹介されている 。
リベットらが問題にしたのは「手を動かそう」という自由意志と運動準備電位との時間的な関係だ。(中略)リベットたちはこの時間関係を注意深く測定し、重要なことを見つけたのである。「手を動かそう」という意志は、運動準備電位が現れ始めてから数百ミリ秒たって、あるレベル以上に運動準備電位が大きくなった後に現れるということだ。「後に」であって「前に」ではない。(★註1)
澤口はこの結果を「脳活動が随意運動に先立つ」ことの証拠として挙げ、彼の「心=脳活動一元論」の例証としている。それと同時に、心が脳活動の原因になるとする説、脳と心とを別物として扱う説である「二元論=哲学」が棄却されるのは言うまでもない。(★註2)注意すべきは、ここで「随意運動」が自由意志といいかえられていることだ。そしてこの実験結果をもって自由意志の問題に決着がついたかのようである。
これは「自由意志」と脳活動との関係だが、「意識」と脳活動の因果関係に関しても本質的に同じデータが得られている。つまり「脳活動が原因で意識が結果として出てくる」というデータである。(★註3)
さて、ここからが私の疑問。ズイイウンドージユーイシと簡単に言うが、この実験の際にそれらの概念についての吟味はなされているのだろうか。ここでは、被験者が「右手を動かそう」と思う数百ミリ秒前に運動準備電位に変化があらわれたという実験結果をもとに、運動準備電位の変化が「右手を動かそう」という意志の「原因」だ(「右手を動かそう」という意志は運動準備電位の変化の「結果」だ)と結論されているわけだが、ほんとうにそんな具合に理解してもよいものか。自由意志の「原因」とされた運動準備電位の変化は、それよりもさらに以前の自由意志の「結果」であると考えることもできるのではないか。それとも、自由意志の「原因」とされた運動準備電位の変化の「原因」ではないのかと指摘した、さらに以前の自由意志は、さらにさらに以前の運動準備電位の「結果」なのかもしれない。(被験者はたぶんアルバイトの学生なのだろうが、彼/彼女は実験に先立って当の科学者も知らない生活史をもっているに違いない。)こう考えると無限退行は避けられないし、そもそも「因果」「自由意志」というものをどうとらえるべきかが問題になってくる。また、もし「自由意志が発生する前に運動準備電位が現れる/運動準備電位こそが自由意志の原因である」と認めたとして、ではその運動準備電位はどのように現れるのか。もし運動準備電位こそが自由意志の原因であるとしたら、それはそれ自体を原因として「ひとりでに」あらわれるというしかない。そうだとしたら、そもそも実験に先立って「右手を動かしなさい」と被験者へ命令することは実験にとってまったく意味をなさない行為だ。「右手を動かす」ための運動準備電位は、ここでの原因の定義からしてあらゆる刺激から独立な、それ自体のみを原因とする原因であるわけだから。そう考えると「運動準備電位こそが自由意志の原因である」という言明は、神の存在を証明したと称しているに等しい。むしろ実験そのもののやり方を変えたほうがよいのかもしれない。被験者の知らぬ間にこっそりと脳波を測定するといったように。なぜなら被験者は運動準備電位があらわれるはるか以前に「右手を動かせ」という命令を受け取っているわけだから、いくら「運動準備電位こそが自由意志の原因だ」といったところで、運動準備電位をも先立つ原因の存立可能性を否定できないからである。以上見てきたように、すでにここには因果論と自由意志という、それこそ「哲学的」なハード・プロブレムが横たわっているわけだ。「脳科学者にはそんな面倒くさいテツガクテキ議論に関わるつもりはない。単に『どうなるか』実験してみただけだ」と言うのなら、それはそれでよろしい。だが、そうであるならばもはやその時点で自由意志の概念には特定の「脳科学的」限定が加えられているはずであるから、この実験をもって自由意志に関するすべての「哲学的」議論の終結を宣言することなどできないことは明白である。(★註4)

このように、随意運動に関する実験ひとつをとっても浮かび上がってくるのは、むしろ実験の不可能性である。より精確にいえば、「哲学的」問題に解決をもたらすと称する実験の不可能性、特定の実験が「哲学的」問題に解決をもたらすことの不可能性である。あるいはお好みなら次のように言い換えてもよい。実験はつねにあらたな問いへと開かれている、と。(★註5)

今後掲載する「脳と心」本論では、以上であぶりだされた問題のうち、「脳科学と哲学は同じ対象、目的をもっていると仮定されているが、それは妥当か」「脳活動こそ意識の原因というときに脳活動と意識とが因果関係としてとらえられているが、それは妥当か」「脳科学が意識を解明するというとき、その解明という言葉は何を意味しているのか。それは哲学とどう関係するのか、あるいはしないのか」ということを中心に考えていきたい。

(1997/12/29 吉川浩満)


★註1――澤口俊之『「私」は脳のどこにいるのか』筑摩書房、1997年、p.26

★註2――澤口のいう「心=脳活動一元論」は本当に一元論か。諸哲学が「二元論」と否定されるがそれは妥当か。そもそも一元論、二元論とは何か。ここではこれらの疑問については論じない。

★註3――澤口俊之『「私」は脳のどこにいるのか』筑摩書房、1997年、p.27

★註4――ここで問題になるのは、因果論や自由意志の問題そのものであるとともに、果たして哲学と脳科学は本書が言うように同じ目的・対象をもっているのかどうかということであるが、これらについては別に論じたい。

★註5――もちろん、そう述べたことで私が何か高みから良いコトを言ったつもりになっているわけではまったくないことをお断りしておく。単に実験(と実験結果の解釈)が依拠する前提がはらむ問題を指摘したのみであるから。






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