書物を買いもとめるのは結構なことであろう。ただしついでにそれを読む時間も、買いもとめることができればである――ショウペンハウエル なんのきっかけだったかはもう忘れてしまったが、ある時ひとから「あなたがたは月にしてどれくらいの本をお買い求めになりますか?」という質問をうけたことがある。「あなたがた」と言われているのは、ぼくと吉田浩のことだ。 しばし黙考(反省?)して二人で考え合わせてみたところ、「月に平均すると10万円程度でしょうか」というのがぼくたちの答えだった。細かい計算は省くとしても、年間で120万円前後だろうという見積もりだったので、これを12で割って月10万円という数字が出た。もちろん、二人で月10万円ではなく、一人10万円ずつである。 この数字が多いのか少ないのか。実を言えばよくわからない。なぜわからないのかというと、それがぼくたちの日常だからだ。しかし、それが相対的に多いかもしれないことは薄々気づいている。というのも、賃金労働者として月々会社から得ている給与から考えれば、ずいぶんな割合を占めているからだ。もっとも、遣いどころが違うというだけで、ひとはそのくらいのお金をなにかに消費しているだろう。そういう意味でもそれが多いのか少ないのかわからない。 いずれにしても、月に幾ら分の書物を買い求めるか、はまったく問題ではない。ひとは金を持てばあるだけ書物を買い求めることができるだろうから。事実、世の中にはぼくたちの買書が児戯に見えるような買書家がゴマンといる。ぼくたちは10万円を以って、複数の書物を買い求めるわけだが、場合によっては10万円では太刀打ちできないような書物を数冊とまとめ買いする向きさえあるだろう。もちろん、その場合「書物」という同じ言葉で乱暴にまとめられてしまっているものの中には、ワン&オンリーのアウラをまとったものから、大量過剰複製時代のペーパーバックスまでがごっちゃにされている。断るまでもないことだが、ぼくたちは愛書家ではない。普通に書店で手にはいる(といっても昨今はそれさえもむつかしくなりつつあるのだが)大量過剰複製品としての書物を購入する者だ。 山田風太郎氏ではないが、ひとはよく、死ぬまでにあと何回の飯を食うのか、あと何時間眠るのか、といったことを考える。同様に、死ぬまでにあと何本の映画を観るのか、あと何冊の書物を読むのか、ということを考える。そもそも「人間いたるところに青山あり」なわけで、ひとはそう考えた舌の根も乾かぬ3分後にポックリ死ぬるかもしれない。だからこの類の問いにさしたる意味はない。1990年代の日本のロック・シーンを快走するロック・バンド "THE HIGH-LOWS" のギタリスト、マーシーこと真島昌利氏はかつて、宝飾業界の常套句「永遠の輝き」(を持つダイアモンドを貴方の手に)を揶揄して「永遠の輝き?おれたちが永遠に生きるわけでもないのにどうすんの」と喝破したが、けだし名言である。とはいえ、わたしたちは意味の有無を気にしながらものを考えるばかりではない。そういった有意味/無意味といった審級とは無縁のところで、やはり「死ぬまでにあと何回」かを考えてしまう。「人間は一日に二十四時間だけ死んでいる」(大意)と言ったのはマルクスであった。 では、死ぬまでにあと何冊の本を読むのか(結局書くんですか)。あなたやわたしが現在何歳であるかは措くとして、これからあと50年生きるという皮算用をしてみる。仮に1日に1冊の本を読むとする。一口に本といっても活字の大きさやページ数、段組、内容、言語によって読むスピードは均一ではないからずいぶん乱暴な話だが、まあ、1日に1冊という数字はけっして少なすぎる数字ではない。すると、1年では365冊。10年では3650冊。50年では18250冊。ちなみになんの比較にもならないが、国会図書館の蔵書は、一説には645万冊という。差異を強調するために零を並べてみれば、6,450,000冊である。「同じ分析的単位によって、二つの秩序の大きさを測ることは、ひとつの純粋な虚構であり、喜劇的な欺瞞行為である。あたかも、メートルやセンチメートルで、銀河系の間の距離や原子の間の距離を測るようなものである」などと言う引用はオオゲサに過ぎるかもしれないが、またぞろ益体もない計算をしてみると、国会図書館の蔵書を読破するためには、353.42(小数点第3位以下四捨五入)回だけ、1日1冊の読書をする50年の人生を繰り返さねばならない。ちなみにそれは、17,671.23年(小数点第3位以下四捨五入)に相当する。しかもその蔵書は年年歳歳常識をはるかに越えたスピードで増加しつつあることを忘れてはならない。現在一年間に出版される新刊書籍の点数は6万冊とも7万冊とも聞こえるから(それも日本だけで)、よほどの覚悟が必要である。これはもう火の鳥の生き血を頂戴するか、デーモン閣下の仲間になるほかに手はないのだ。 もっとも、国会図書館にあるすべての蔵書を読破する必要は毛の先ほどもないのであって、世の読書人が精神の平衡を保っていられるのは、ひとえにこの事実に尽きるというもっともな説も故なしとしない。「良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである」――ショウペンハウエルはそう言ったが、ぼくのにらむところでは、これは存分に「悪書」を読んだひとにこそ吐けるセリフである。もしそうだとすれば、ショウペンハウエル先生は、吾人が言うように厭世家らしい苦虫をかみつぶしたような顔――厭世家なる人種がはたして苦虫をかみつぶしたような顔をしているのかどうかはわからないが――でこう書いたのではない。思うに、反省とも悔悟ともつかない苦笑を交えてこう書いたはずである。(後篇へつづく) (1998/07/25 八雲出) |
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