・・・・・・でも、心配することはない。個人の「教養」として読む本の数がどんなに多くても、その人がまだ読んでいない基本的な本の数は、つねに読んだ本の数をはるかに超えているのだから――イタロ・カルヴィーノ さて、とんだ駄法螺に紙幅――というかハード・ディスク容量を費やしてしまった。月にいくらの書物を買い求めるという話だった(それも十二分に駄法螺だが)。 たとえば、10万円という金額は、何冊の書物に匹敵するのか。これはまたむつかしい問題である。古書店の露台から拾い上げる一冊50円の本から、一冊数万円する辞書の類、あるいは揃いで数万円する全集まで含めるとまったく一概に言うことはできない。それでも経験的に言えば、月に購入する書物の冊数は、50冊から200冊が相場である。とは言え、この数字はぼくが購入した書物のうち、蔵書データ・ベースに入力しているものに限られるので、実際にはそこに入力されない雑誌や漫画――こう書いたからといって誤解しないでほしいのだが、ぼくはなにも雑誌や漫画を侮蔑しているわけではない――を数えればさらに数字は増えるのだし、劇場で買ってくる映画のパンフレットや美術展の目録はどうなるのかといえば、なおさらおぼつかないのである(事実、デレク・ジャーマンの『WITTGENSTEIN』のパンフレットは、180頁もある立派な本だった)。そうかと思えば、『レーニン全集』(大月書店)を購入したときは、それだけで48冊になるわけで、まったく油断がならない。 そもそも、月に50から200冊の書物を買って、ひとはそれを全巻読破することができるのか?「否、否、否、断じて否!」(ニーチェ)である。もしぼくと吉田浩が有閑階級で、1週間のうち7日が休日だとすれば、できない相談でもない。だが、それが階級なのかどうかは別として、ぼくたちは賃金労働者である。一日のうち8時間プラス・アルファを賃金と交換している。加うるに、ぼくたちの自由な時間を奪うものは、書物だけではない。睡眠、食事、身繕いはもちろんのこと映画、展覧会、ライヴ、ショッピング、シンギング、トーキング、ローリング、ウォーキングなどなど(ただし通勤と風呂とトイレの時間は読書可能なので控除)さまざまな要因がぼくたちの時間を消尽しようと待ち構えている。とてもそれだけの書物を読むことはできないのだ(まったく威張ることではないが)。 さて、買書といえば思い出さずにはおれないのが、苦沙弥先生だ。先生の留守中に訪れた迷亭氏と奥さんの会話は身につまされて忘れることができない。 「・・・苦沙弥君などは道楽はせず、服装にも構わず、地味に世帯向きに出来上った人でさあ」と迷亭は柄にない説教を陽気な調子でやっている。「ところがあなた大違いで・・・・・・」「何か内々でやりますかね。油断のならない世の中だからね」と飄然とふわふわした返事をする。「ほかの道楽はないですが、むやみに読みもしない本ばかり買いましてね。それも善い加減に見計らって買ってくれると善いんですけれど、勝手に丸善へ行っちゃ何冊でも取て来て、月末になると知らん顔をしているんですもの、去年の暮なんか、月々のものが溜まって大変困りました」「なあに書物なんか取って来るだけ取って来て構わんですよ。払いをとりに来たら今にやる今にやるといっていりゃ帰ってしまいまさあ」「それでも、そう何時までも引張る訳にも参りませんから」と妻君は憮然としている。「それじゃ、訳を話して書籍費を削減させるさ」 夏目漱石『吾輩は猫である』(岩波文庫版より) ぼくは、この一くだりに差し掛かるつど、苦沙弥先生の不遇に対する滂沱を禁じ得ない(ちっとも不遇ではないという説もあるが)。だいたい敵だか味方だかわからない迷亭氏の態度といったらない。しかし、奥方が「読みもしない本を」とぼやくのも無理はない。「猫」の報告によれば、苦沙弥先生は寝床に洋書をもちこむのだが、これを二頁と続けて読んだためしがないのだ。挙げ句の果てには、「・・・主人も書物を枕元に置かないと眠れないのであろう、して見ると主人に取っては書物は読む者ではない眠を誘う器械である。活版の睡眠剤である」と合点され、五、六行も読めば「奇特」だと褒められる始末。子供の時分に読んだおりにはなんとも思わなかったものだが、自分が「勝手に丸善に行っちゃ何冊でも」取ってくるようになるというと事情は自ずから異なる。思わず「負けるな、苦沙弥先生!」と応援したくなるのは、これ人情というもの。たとえ読まれることがなくても、一端買われた書物は、部屋のどこかに一定の空間を占めるのは自然の理。狭い部屋にそれほど多くの書架を置けるはずもなく、棚をあふれる書物はいつしか床を這い、ベッドの下、ピアノの上、冷蔵庫の上と場所を選ばず幾つもの塔を成す。これではまるで京極夏彦氏描くところの京極堂の家みたようだが、生憎とぼくは古本屋ではない。しかし乱雑に積まれた書物が、偶然部屋を訪れるはめになった親兄弟恋人友人知人他人を驚き呆れさせるだけなら罪はない(あるある)。それよりも問題なのは、たしかに買い求めた或いは読んだ憶えのある書物の所在がわからなくなることだ。ともかく見つからない。そんな時は落ち着いて「ないないの神様」に祈ってもみるのだが、いまだお力に与かった試しがない。ぼくは、部屋の中から目的の書物を探し出すことを「発掘」と呼んでいるが、まさに発掘の名にふさわしく、一冊の書物を手にするために塵埃にまみれることしばし。そんな苦労をする位ならいっそのこと、と所在が明確な書店の棚から抜いてくることがある。一番最近では、カオス論の啓蒙書、J.グリック『カオス』(新潮文庫)がどうしても必要で二冊目を買った。三冊目を買うことがないように、と目につく場所におくのだが、油断すると新しい塔に積まれている。 凡庸な思い付きの都合上、引き合いに出される回数が多いショウペンハウエル先生だが、彼の「思索」という文章は次のような一文から始まる。 数量がいかに豊かでも、整理がついていなければ蔵書の効用はおぼつかなく、数量は乏しくても整理の完璧な蔵書であればすぐれた効果をおさめるが、知識の場合も事情はまったく同様である…… 「思索」(斎藤忍随訳『読書について』岩波文庫所収) 耳が痛いのをはるかに通り越して頭が痛い文である。数量が少なくとも整理の完璧な蔵書ということではしなくも思い出すのは、立原正秋の書棚。いつぞや写真で観たそれは、まさにショウペンハウエル先生の教えを実践したごとく……。なにやら「哲学の激情」の特大版のようなものになってしまったが、話がこれ以上拡散しても詮無いので後は他日に期そうと思う。益体もないおしゃべりにここまで付き合っていただいた奇特な読者には申し訳ないのだが、例によってサゲはない。ところで最後に付言すると、前篇の冒頭にエピグラフとして掲げた文章には続きがあって、それは「しかし多くのばあい、我々は書物の購入と、その内容の獲得とを混同している」というものだ。先達はあらまほしきことなり。(了) (1998/07/26 八雲出) |
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