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バディ・ホリーを忘れない

ときどきバディー・ホリーの名前を忘れる。忘れてしまったことに気づくのは、それを思い出そうとするときだ。脳裏にはありありとあの、スーツに蝶ネクタイ、黒い厚縁眼鏡の好青年がサンバースト仕上げのフェンダー・ストラトキャスター(5フレットにカポをはめた)をからげて立っている写真が浮かぶ。バンドは The Crickets 。そして、少し鼻にかけたような声で唄う「ペギー・スー」(Peggy Sue)。1959年2月3日に飛行機事故で死去。そうした私の中で日ごろからバディー・ホリーの像を構成する諸要素(それはバディ・ホリーの生きられた生からすればなんと貧しいことだろう)がつぎつぎと立ち現れては渦をまく。けれども思い出せないのだ。最近ではここに映画『Six Strings Samurai』が加わる。映画の主人公バディは仕込み杖ならぬ仕込みギターを持ったクンフー・マスター。その外見はまるでバディ・ホリー――壊れた眼鏡のフレームをテープで止めてあるところ、スーツがよれているところ、そして本物に比べるとすこしばかり無骨な風情を除けば。

バディー・ホリーの名前を忘れて思い出そうとするときには、決まって思い出す別の名前がある。ビル・ヘイリー(&ヒズ・コメッツ)、ホリー・コール、バディ・ホールデン、スミスとペイジの二人のパティ、ビリー・シーン、ビリー・ジョエル、エルビス・コステロ……。名曲「ロック・アラウンド・ザ・クロック」で知られるビル・ヘイリーは、名前のイニシャルが B.H. であることが Buddy Holy と共通してはいる(「&〜」とバンド名が後ろにつくところも)。ホリー・コールはとてもわかりやすく、一方は姓で他方は名という違いこそあれど「ホリー」が共通しているからだろう。とはいえ、これはバディ・ホリーの名前を忘れていない状態であるいまだから言えることであって、バディ・ホリーの名前を思い出せない状態のときには、「うーむ、ホリー・コール……なぜホリー・コール? ホリー? ホリーがなにか関係あるのか? コール? コールなのか?」などとバディ・ホリーの名前を思い出せないことから連想した――といってもそのようにして記憶にたちあらわれたホリー・コールの名前自体を能動的に思い出そうとして思い出したのではなく、それこそ事態はまったく私の制御しうるものとは程遠く私の無意識とでもいうべき部分からやってきた(そう、やってくるのだ)名前に過ぎないわけだが――それとは異なる名前に当惑しつつ、しかしバディ・ホリーの名前を忘れてしまうたびどこからかやってくるホリー・コールの名はまったく無関係でもないに違いないと思い、そう思うだけに余計にこのバディ・ホリーの名を思い出すための唯一の手がかりがありがたくもありかつもどかしくもあるのだ。せっかく手繰り寄せたホリー・コールからたとえば彼女がカヴァーしたこともある「コーリング・ユー」のメロディを思いだしそれはただちに物語の幕開けからしてどこか忘れがたい映画『バグダッド・カフェ』の記憶につながるのだがそれはもはや脱線であることが(バディ・ホリーの名について)記憶不鮮明であるにもかかわらず感知され、そちらの線は捨てるのである。そして私はついにホリー・コールの名前からバディ・ホリーの名へとたどりつけたためしはなく、(記憶が確かなときから考えれば)せっかく無意識が差し伸べる細い蜘蛛の糸もまったく救いにならない。

以下の名前もこうしてバディ・ホリーの名を問題なく自在にあやつることができる状態(そのありがたさは忘れて思い出せないことによっていや増しに感得せられるわけだが)においては、さほど奇特なものではなくバディやパティは畑や傾向こそ違うミュージッシャンであるのはともかくとしてバディに近いわけであるが、ここまで迫りながら今度は肝心のホリーを取り逃がす(先達てホリー・コールにおいて一度はつかまえておきながら!)テイタラクはこれも毎度のこと。二人のビリーについては、ビル・ヘイリーからのさらなる連想であろうし、表音上の連関が見えづらいエルヴィス・コステロについては以前音楽雑誌で彼がバディ・ホリーのことを敬愛しておりあのようなバディ眼鏡をかけているんだというインタヴューを読んだためだろう。

とはいえ、こうした解釈をしてみたところでバディの名を忘れたときには何の訳にもたたない。まるでそれ自体がバディ・ホリーの名を忘れることと一組となった一連の記憶のように、バディ・ホリーの名を忘れるたび、私はそうした名前を思い出す。そもそもそれらの名前についてのこうした解釈自体(いかにしてそれがバディ・ホリーに結びついているか)を、バディ・ホリーの名を失念する際には共に失念するのだからしようがない。かくなる上は、というのでいつ何時バディ・ホリーの名前を忘れてしまっても困らないようにと手帖に書きこみもするのだが、これもまた効力が発揮したためしがないのだからどうかしている。もっともバディ・ホリーの名前を思い出せないことによって深刻な不利益が生じたことは一度もなく、唯一の損害といえばその名を口にしたいのにもかかわらず以上に長々と述べたような経過を経つつもついに思い出せず独り静かに切歯扼腕することくらいなもの。だからといってなにもあなたの貴重な人生の時間を数分さいていただいてまでここに力説することではまったくもってないのだが、つぎからはバディ・ホリーの名を忘れたら拙サイトを見ることによって思い出せるではないかという密かな目論みがあってこのようなことをつらつらと書き連ねるという多少(というより極少かつ極私的)の利益をねらっていもするのである。また、このように書いておくことによって万が一私が自分でこのような駄文を草したことさえも失念したとしても、当サイトの共同編集・執筆者である吉田浩や北村洋によってバディ・ホリーの名を思い出せず額に汗する私を「なに、八雲くん、きみが忘れて困っているのはほかならぬバディ・ホリーじゃないか、はっはっは」と救わせしむる計画である(ここだけの話)。もっとも彼ら二人もまたバディ・ホリー失念症候群を患っている場合、この計画はただちに破綻する危惧がある。目下次善の策を考案中である次第。だが、このことはあなたがもしバディ・ホリーの名を忘れて歯噛みしたときに拙サイトを閲読する妨げにはならないはずだ。失念に先だってこのページをブックマークし活用されたい。

そういえば私はハリソン・フォードの名もまたよく失念するのであった(単にハ行が続く名前に弱いのか?)。いよいよ『失念気味人名事典』を編集する季節がやってきたのだろうか。ってこうしている今も思い出そうとすると思い出せない名前があるのかもしれないのであってまったく油断のならぬことだ。

(2001/07/04 八雲出)






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